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第2回 ベニス

かつてはロサンゼルス日系社会の中心であったにもかかわらず、ワッツ暴動の後に潮が引くように日系人の人口が激減してしまった西南地区。続いて訪れたベニスは、この西南地区とはかなり様相が異なる。なぜなら、現在もコミュニティーセンターや本願寺を中心とした日系コミュニティーが確実に形成されているからだ。往時に比べて人口が減少したことは事実だが、今もこのエリアにおける日系の団結力は強い。その秘密を、生まれてからほとんどの年月をここで過ごして来たペリー・ミヤケさんに聞いた。

収容所から戻って来た日系人たち

ベニス生まれのベニス育ち。今もこの地域で働く三世のペリー・ミヤケさん。勤務先の日系マーケットの前で。

ミヤケさんは2011年に発行されたベニス・ジャパニーズ・コミュニティーセンター88周年記念の書籍編纂の中心人物である。「21世紀のマンザナー」という小説を上梓した作家としての顔も持つ。

記念書籍の紹介文に、彼はベニスのことを次のように著している。「我々は(皆が想像するイメージの)ベニスにはいない。ここははるか内陸にあり、周囲にビーチはなく、ボードウォークもなければ観光客もいない。しかし、我々がベニス・ジャパニーズ・コミュニティーセンターと呼称するのは、ベニス本願寺仏教寺院、ベニス–サンタモニカ・フリーメソジスト教会がカリフォルニア、ベニスの日系アメリカ人コミュニティーの百年に及ぶ歴史の根本にあるからである」

ミヤケさんは1953年生まれの三世。広島出身の父親側の祖父が1901年に渡米,その後、いったん日本に引き揚げ、1910年頃、この地に落ち着いた。現在のベニス・ハイスクールの北に広がっていた農場内で生活していたミヤケ一家は14人の子供に恵まれた。下から3番目の子供がペリー・ミヤケさんの父親だ。その父親は1942年に地元のベニス・ハイスクールを卒業するはずだったが、戦争に突入し、一家は強制収容所に移送されてしまう。戦後はすぐにロサンゼルスに戻ることが叶わず、祖父や父、その兄弟たちはミシガン州の農園でリンゴの収穫をする労働者として雇われた。ベニスに戻って来たのは、ミヤケさんが生まれる3年前、1950年のことだった。

なぜ、ベニスから引き離され、バラバラになった日系の家族が戻って来たか?それは、サンタモニカ・フリーメソジズト教会のクライド・バーネット牧師の尽力によるところが大きい。バーネット牧師は日系人たちが強制収容所送りになって空になったジャパニーズ・コミュニティーセンターの施設を管理し、日系人が戻ってくると、センターを臨時宿泊施設として開放したのだ。

「落ち着く場所が決まるまで、子供のいる家族はセンター内の教室に寝泊まりし、単身者は敷地内にテントを張って生活していたと聞いています」とミヤケさんは、ベニスに舞い戻った日系人たちが牧師の庇護の下で、身を寄せ合い、協力し合っていたのだと教えてくれた。

やがて住居を定めた日系人たちは、農業や庭師などをして生計を立てた。農産物では特にセロリが有名で、ミヤケさんが子供の頃は、一帯には広大なセロリ農園が広がっていたそうだ。「カルバー・ブルバード沿いの線路を、セロリを満載した貨車がダウンタウンの市場に向けて走っていました」

一帯で収穫されたセロリは、貨物に載せられてダウンタウンへ搬送されていた。当時、カルバー・ブルバード沿いの線路が引かれていた場所は遊歩道に生まれ変わった。

不動産ブームで他地域に流出
今も祭りやセンターのプログラム続く

ベニスの日系社会に大きな変化が訪れたのは1970年代中盤の時期、地価の高騰により、多くの日系人が住居を郊外のサウスベイやオレンジ郡に移し、地域を出て行ってしまった。

目抜き通りだったセンチネラ沿いの日系商店も、そのほとんどが閉店に追い込まれた。今では、薬局のM&Sファーマシー、そして元のウエイトレスが買い取って営業が継続しているサクラ・レストランを残すのみとなった。

「2、3年の間に不動産ブームが来て、価格が2倍にまで跳ね上がりました。私の友達の三世の世代が、その時期に一気にいなくなりました。しかし、住み慣れた土地だからと二世の中には残った人も多く、私の両親も今もここに住んでいます」

ミヤケさん自身は、ロングビーチとハモサビーチに数年間住んだものの、両親の家の2軒先に貸家が出たので気軽な気持ちでベニスに戻って来た。やがて、その家を買い取り、今は職場も同じベニス地区の日系マーケット内にある。

「ベニスの魅力?やっぱりここがホームだという安心感ですね。親も親戚も近くにいるし、コミュニティーセンターや教会に行けば、今も顔なじみに会うことができる。私だけでなく、母もコミュニティーセンターで開講されているシニア向けのエキササイズや食の栄養に関するクラスを楽しみにしています。センターには子供からお年寄りまでが楽しめるさまざまなクラスが開設されています。人口は減ったけれど、人を集める工夫は続いているのです。お寺のお盆祭りに来てみてください。それはもうベニス一帯の日系人が集合してとてもにぎやかですよ」

故郷、ベニスについて語るミヤケさんの顔は、誇りに満ちて晴れやかだ。コミュニティーの活動が続いているのは、ミヤケさんたちのような三世以降の世代が積極的に関与しているからに違いない、と感想を伝えると、「実は私がコミュニティーセンターに関わるようになったのは、記念本の執筆に携わって以降なのです」と打ち明けた。

かつてのベニスの日系社会の中心地。今もサクラ・レストランは営業されている。

© 2013 Keiko Fukuda

California Japantowns Los Angeles United States Venice (neighborhood)
About this series

Terminal Island, the Southwest, and Venice. This series visits areas near Los Angeles that were once home to Japanese residents and talks to witnesses about what life was like back then.

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About the Author

Keiko Fukuda was born in Oita, Japan. After graduating from International Christian University, she worked for a publishing company. Fukuda moved to the United States in 1992 where she became the chief editor of a Japanese community magazine. In 2003, Fukuda started working as a freelance writer. She currently writes articles for both Japanese and U.S. magazines with a focus on interviews. Fukuda is the co-author of Nihon ni umarete (“Born in Japan”) published by Hankyu Communications. Website: https://angeleno.net 

Updated July 2020

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