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https://www.discovernikkei.org/en/journal/2013/02/08/

第八話 カーニバルの悲しい出来事

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私は日系二世の70歳のおばちゃんです。昔からカーニバルにはあまり興味がありませんでした。カーニバルとはブラジル人にとって、年に一度の楽しみだとしか思っておらず、「ブラジル人ではない」と認識している私には関心がなかったからです。しかし、当時から日系人会では「バイレ・デ・カルナバル」というカーニバルのダンスパーティーが開かれ、日系の若者たちも楽しむようになっていました。私も友だちと一緒に行ったことがありましたが、特別な思いはありませんでした。

24歳で結婚した私は4人の子どもに恵まれました。長女は学校の先生になって公立中学校に勤めていましたが、給料が少ない上に、学校がスラム街の側だったので、勤務するのがだんだん危険になり、辞めてしまいました。ちょうどその頃、日系人の間に、デカセギブームがあり、すぐ日本に働きに行くことになりました。それを知った高校生だった次女は「私も行く!」と言い張りました。

私は美容師の仕事をしていましたので、次女をとても頼りにしていました。就職1年目の長男には朝食をしっかり食べさせたかったし、末っ子の息子は育ち盛りの中学生だったので、カリン(次女の名前)に食事の世話を任せていました。私はとても悩みました。と、言うのも、その1年ほど前に、大工の仕事をしていた夫が脳出血で倒れ、リハビリをしていました。もし、カリンを日本に行かせるとしたら、私は美容師の仕事を減らさざるをえず、すぐに生活に困ることになるからでした。

十歳の時から娘は家事を手伝ってくれていて、夜遅くなってから学校の宿題をしていました。週末も友だちと映画や遊びに行くこともできなかったのです。それでも、娘は文句ひとつ言わず、黙々と家事をしてくれていました。そういう子が初めて意思をはっきり表示したのに、私は反対してしまったのです。

しょげた妹を慰めようと、長女は「ねぇ、学校は今年で卒業なんでしょう?もったいないじゃん。あと少しなんだからガンバレ!大丈夫、ねえちゃんは日本で待ってるから」。

末っ子のジョージも「僕の食事なら心配しないでいいよ!飯も炊けるし、フェイジョン1も作れるし!」と。

それまで黙って聞いていた夫も「カリンはここまでよく頑張ってくれた。パパイもぼちぼち仕事に戻るから、行って来い。パパイの分もよく見て来るんだよ」。

このような家族の応援があり、カリンは8ヶ月間ブラジルに留まり、高校を無事卒業して、日本へと出発しました。

カリンが日本に行った当時、長女は茨城県の電気部品工場で働いていましたが、妹と同じ場所に住むために、その工場を辞め、姉妹は山梨に住みました。仕事場は別々でしたが、ふたりともホテルで働きました。その頃の娘たちの手紙や写真をもう一度読んだり見たりすると、泣けてしまいます。ふたりとも生き生きとしていました。子どもの時から人見知りだったカリンが別人のようでした。近所の奥さんたちは写真を見て「この人、誰?」と聞くほど次女は美しく成長していました。

しばらく経って、長女は日系人の男性と結婚しました。日本に住み着いて15年になるお婿さんは、甲府市に家も持っていたので、式はそちらで挙げました。そのため、私は胸をどきどきさせながら、初めての外国旅行に発ち、結婚式に出席しました。わずか12日間の滞在でしたが、お蔭様で娘たちと一緒に楽しい時間を過ごせました。しかし、今思うと、カリンにはつかの間の幸せだったと不憫でなりません。

それから2年半がたった頃、カリンは休暇を取ってブラジルに戻りました。着いたのは2月21日、ちょうどカーニバルの週でした。街は彩り鮮やかに飾られ、店は仮装衣装やカーニバル用のグッズであふれていました。小麦色の肌の女の子は「バイアーナ」の衣装を買ってもらい、その場でサンバを踊っていました。それを見てカリンは「本当にブラジルに戻ったんだ!」と叫び、私は大笑いしました。

その夜、うちで歓迎会をしました。私たち家族と親戚6人の集まりでした。本当は、親戚の数はもっと多いのですが、パーティーを分散しました。なぜなら、デカセギはお金をたくさん持って戻って来るという「うわさ」がブラジル社会に広がり、日系人は警戒するようになっていたのです。帰国したことを口外しないことや知らない人の電話はすぐ切ることも徹底していました。

市内に住んでいる私の妹夫婦と2人の姪が着いた後に、チャイムがなり「タケー叔父さんだ!」とカリンが入口に急ぎました。

すると、ドアがバーンと外側から蹴られ、開きました。現れたのは黒いアイマスクをした男と後ろからもう1人の若者。その若者は顔を隠さず、まだ未成年2に見えました。アイマスクの男はピストルで脅しながら周囲を見回し、私たちをトイレに閉じ込めました。

男らが家にあったスーツケースに品物をどんどん入れ、テレビやパソコンや電気製品を持ち運んで去って行ったのだと思っていると、トイレのドアが開き、「前に停めてある車の鍵をよこせ」と、アイマスクなしの男が要求しました。

車の持ち主の姪が椅子に置いてあったバッグを取りに行こうとすると、アイマスクの男は「おまえも来い」と彼女の腕を強くひっぱり、外へ出て行こうとしました。その瞬間、体が不自由な夫が杖で殴ろうとしましたが、アイマスクの男に、逆に、突き飛ばされてしまいました。夫は、ばったりと倒れて動なくなってしまいました。それまで震えながら私の手を握っていたカリンが叫んで父親に駆け寄り、側から離れませんでした。

そして、姪が車の鍵を渡すと、男は妹の夫を人質にして、車で去って行きました。未明に、義弟は無事に戻って来ました。街の銀行のATMで金をおろして男らに渡し、警察で被害届を提出して来たと話しました。

以来、私たちは恐怖を覚え、結婚してからずっと住んでいた家を引き払い、現在の地に引っ越して来ました。新しい隣近所には「田舎から来ました」と、娘がデカセギに日本に行っていることなどは、誰にも話していません。夫は前の広い家が忘れられず、狭い部屋で一日中ぼんやりと過ごしています。

カリンは1ヵ月後、日本に戻りましたが、仕事に集中できず、体調を崩し、入院してしまいました。仕事場では同僚とトラブルを起こし、暇をもらい、精神科にかかりました。その結果、うつ病だと診断されました。

ちょうどその頃、長女は第二子の出産を控えていましたので、カリンを連れて里帰りしました。

カリンの生活はすっかり変わりました。体調の良い時は散歩や買い物に出かけたり、家事をしたり、日本料理も上手に作ってくれますが、良くない時は部屋に引きこもり、窓も開けないで居ます。私の一言にも激しく反応するので、そっとしておいています。

今日もそういう日です。ドアの外の小さなテーブルに食事を用意しています。好物のお菓子とフルーツも。いつもは雑誌や新聞も置いておきますが、今日だけは止めておきます。今日はカーニバルの最終日です。9年前のあの恐ろしい出来事があったのもカーニバルの最終日でした。

外からは地域のサンバグループの演奏が聞こえてきます。今年もブラジル中のカーニバルの愛好家は熱中してパレードに参加しているのでしょう。テレビのニュースを見ていると、世の中はいつものように動いています。人々も普通に生活しているようです。そうであれば、なんで、うちのカリンだけが昔のままでいられないのでしょう。どうして生活がこんなに変わってしまったのでしょう。あの出来事さえなかったならば、日本でエステシャンの資格を取って、それをブラジルで生かしていたでしょう。

昔から好きではなかったカーニバルは「悪魔の祭り」にしか思えなくなってしまいました。人々の目を晦ませ、悪意を持って押し込んでくるサタンのようです。9年前、うちの前に突っ立ていた2人の犯人を見たという人がいました。

夕方、近所の奥さんが2人を見かけると、若い方は奥さんに「Boa noite(こんばんは)」と丁寧に挨拶し、アイマスクの方はハンサムで、子どもの頃よく映画館で見た「怪傑ゾロ」にそっくりで、全然あやしいとは思えなかったと言っていました。

毎年、この時期になると心はなお痛みます。カリンの不安定な状態はいつまで続くのでしょうか。私もショックが大きかったのですが、私がしっかりしなければいけないのです。母親としてどう支えたらよいのでしょうか。私は「苦難の道」を歩み続けます。

 

注釈:

1. フェイジョンは一般ブラジル人の常食

2. ブラジルでは18歳以下は殺人を犯しても罪に問われない

© 2013 Laura Honda-Hasegawa

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About this series

In 1988, I read a news article about dekasegi and had an idea: "This might be a good subject for a novel." But I never imagined that I would end up becoming the author of this novel...

In 1990, I finished my first novel, and in the final scene, the protagonist Kimiko goes to Japan to work as a dekasegi worker. 11 years later, when I was asked to write a short story, I again chose the theme of dekasegi. Then, in 2008, I had my own dekasegi experience, and it left me with a lot of questions. "What is dekasegi?" "Where do dekasegi workers belong?"

I realized that the world of dekasegi is very complicated.

Through this series, I hope to think about these questions together.

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About the Author

Born in São Paulo, Brazil in 1947. Worked in the field of education until 2009. Since then, she has dedicated herself exclusively to literature, writing essays, short stories and novels, all from a Nikkei point of view.

She grew up listening to Japanese children's stories told by her mother. As a teenager, she read the monthly issue of Shojo Kurabu, a youth magazine for girls imported from Japan. She watched almost all of Ozu's films, developing a great admiration for Japanese culture all her life.


Updated May 2023

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