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アメリカと私

過ぎ去って手の届かない所に行ってしまってから、思い出すことは多すぎる。

私は、戦中から戦後も軍需工場だった飛行機会社で働いていた。戦争も末期、飛行機の材料であるジュラルミンが少なくなり、木製機を設計しているエンジニアの下で図面引きや研究資料の作成で、これらはすぺて陸軍省に提出された。

終戦で飛行機会社が接収され、連合軍総司令部の管轄に置かれた。私は技術部設計課にそのまま残され、日本政府の雇傭になった。仕事は米軍機の修理や内部の改造の製図で、特殊技術者というのが私の正式な職名になった。

アメリカ側からは軍属のエンジニアが、日本側からは戦争中、目本の戦争機を設計した優れたエンジニアが召集されていて、私はその下でまた製図の仕事をする様になった。この航空技術課で、私はテクニカル・イラストレーションの腕をみがいた。極東空軍が引きあげた後は、技術部のエンジニアが設立した技術研究所に席を置き、テクニカル・イラストレーターという、女性では当時めずらしい仕事だった。

アメリカに帰国していたGHQ時代のエンジニアたちから、女性のテクニカル・イラストレーターは珍しいので、アメリカで勉強するよう誘いをうけていた。

自動車産業の発達で、益々このテクニカル・イラストの仕事は必要になってきていたし、研究所でも、この勉強を本場のアメリカで学んで来るのも良いと、二年間ということで許可され、帰国すれば女社長のポジションも待っているからと言われた。

多くの男性は戦死して、私の年代では戦争未亡人が多かった。母の反対も強く、いっこうに結婚する気配を見せない娘に気をもんでいる母は、一人では出さないというので、妹と二人で行って二年したら帰ると母に約束をした。

私は仕事を辞めて日本を離れることに迷っていたが、目をつぶる様にして行動に移したのだった。四十代の始めという、人生に取って今だという時期だったのかも知れない。私は自分の信条的立場を定め得ぬまま、アメリカへ留学生として渡った。私が渡米した頃は、まだ海外への自由渡航が許可されない時代で、保証人がいなくてはピザが下りない。オールギャランティーを求められた。東京の街にはアメリカ人があふれていた。

私は、横浜から家族やエンジニアの人たちに送られ、テープを切って出港した。三井船舶の「協徳丸」という貨物船で荷物が主、客が従の船員五十人に船客は私たち女子学生が三人だけだった。北海道に一晩停泊し、粉雪の舞う釧路を後にし、一週間後ぺーリング海上で大シケに見舞まわれ、船底のボルトが抜け、船底に大穴があき水が入り、航海に危険を生じた。近くの島、ダッチハーバーに無線を打つと、エイダック島に寄港するよう指令された。

エイダック島はツンドラ地帯と呼ばれる所でアラスカの一部で、アメリカとソ連の境になるこの島は、アメリカがソ連から買い取った島々であるため、この軍港はアメリカが重要視している所でミサイルの基地になっている。

船長以外、誰も下船することができず、この事故は日本の新聞、ラジオでも報道された。ここを訪れた日本人としては、私たちが初めてであった。このペーリング海の真っ只中で、十二日間を船の修理のため停泊し、私たちは高級ホテルに泊っている様な至れり尽くせりの待遇を受けた。私たちだけが軍艦クラブ学校等に招待された。

エジソン・テクニカル・スクールに入学して、スピーチの時間に船旅をテーマにしてクラスで話した。これがシアトルのテレビ局に伝わり、局から依頼されて日曜日の特別番組に出ることになった。テレビ局のスタジオにクラスルームをセットして、先生とクラスメートの人たちの前で絵日記を見せながら出演した。私のアメリカ留学の第一歩はここから始まった。

私はこれまで習得した資格や経験、言葉は役に立たない状態で、私の足がかりになるものが何にもなかったが、努力した甲斐あってスカラーシップを得て卒業することができた。

約束した二年はとうに過ぎ、男だったら帰国していたと思うことがある。学校からの推薦でアドバタイジング・アーティストとして新聞社の仕事をし、個展も毎年開き忙殺されていた。

ギャラリーのオーナーから、私の絵を買った大学の教授をしている人物を紹介された。フランス語とドイツ語の教授であったが、墨絵で動物の絵を描く画家でもあり、エッチングのエキスパートでもあった。彼は休日に迎えに来てくれ、よく動物園にスケッチに行った。彼は前の年に離婚しており、若い時の恋愛と違い、杜会的基盤も出来た年齢に達しての出来事には慎重になる。しかし、彼の芸術に対する尊敬が人間としての尊敬に広がっていった。

白いハナミズキの咲く友人の家の庭で、牧師を呼び結婚式を挙げた。集まった友人たちによって賑やかな披露宴もしてもらった。多くの人々の世話になり、迷惑もかけた。掛けがえのない人生をこれから大切にしたいと思った。

私たちは、先生と生徒の関係から夫婦になって今年で四十年、彼と結婚してラッキーだったと思っている。彼は私と巡り逢ったことはミラクルだといっている。喧嘩をし、ストレスを発散させて落ち着くというパターンを繰りかえすうち色々なことがわかって来た。彼はよく「私は貴方が必要です」という言葉を使っている。私はこの言葉が非常に好きだ。アメリカ人がよく使う、"Do you need me?" という言薬」は"I love you" 以上の強い愛の響きがある様な気がするし、私も彼を必要としている。自分を必要とする場所を得た私は幸せだと思う。

長いこと帰らなかった日本へ、結婚して二人で里帰りもした。故郷の変容振りを見て息づまる様な思いがした。父母は逝き、故郷とのかかわり合いも、私の中の故郷も自分がたどって来た道程の景色が変わる様に、その都度変わってきていた。外国は故郷にはならなかったが、故郷は外国になってしまった様だ。

横浜の港を旅立ってから早や四十余年の歳月が流れたのだ。アメリカという国家と文化の表層と深層の狭間に生きて、自分の処世観も人生観も色々の変貌をとげてきた。

私はアメリカで暮らしてきて、良かったという思いを抱いている。


*本稿は、文芸春秋2011年度版ベストエッセイ集に選出。日系及び日本人の在米作家(南カリフォルニア中心)の随筆、詩、俳句、川柳等を集めた電子書籍としては初めての月刊文芸誌『りとると文庫』(創刊号、2011年12月)にも掲載された。

© 2011 Teiko Shimazaki Applebaum

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