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偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 -その5/9

>>その4

1937年、メキシコからニューヨークに戻ったイサムは、初めての量産品「Radio Nurse」の制作を手がける。そして、1939年には、ニューヨークで初めてのテーブルのデザイン作品「Table for A. conger Goodyear」を発表する。

1941年、ニューヨークで知り合った親友の画家アーシル・ゴーキーとロサンゼルスのハリウッドで生活を共にする。アルメニアで生まれたアーシル・ゴーキーは、トルコ人によるアルメニア侵攻で、アルメニア人虐殺に合い、母を失い、辛くも生き延び、先にアメリカに渡っていた父親を頼って1920年にアメリカに移住した。1922年にボストンの美術学校に入学している。その後、シュールレアリズムの影響を受けながら、抽象表現主義の作家として独自な世界を表現し、アメリカ現代作家の中で重要な立場にいた作家であった。しかし、1946には、火災で多くの作品を焼失したリ、ガンを患ったり、事故に遭ったり、妻と子供が家を去ったり、不幸続きの末に44歳の若さで、1948年、アーシル・ゴーキーは自殺した。イサムに取って掛け替えのない親友を失うことになった。

1941年、日本帝国海軍の空母機動部隊は、ハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争へと突入して行った。明くる年、1942年、日本人移民者、日系アメリカ人たちは、強制収容所に入れられた。(アメリカ全土に十カ所ぐらい収容所があった)。

マンザナ強制収容所(Wikipediaから転載)

イサムは、自分には半分日本人の血が流れているからと、自ら入所を志願し、アリゾナのボストン収容所に入所した。しかし、日本人からは、アメリカ側のスパイだと警戒され、誰一人として口も利いてもらえず、居場所がないまま孤独感も深まり、憂鬱な毎日を送る羽目になる。やむなく出所を申し入れたが、自ら志願した経緯もあり、そう簡単なことではなかった。親友であった建築家のフランク・ロイド・ライトに依頼してアメリカ人から嘆願書を集めてもらいようやくの事で出所できた。イサムはいつもアメリカ人と日本人の狭間で生きることを余儀なくされた。

この強制収容所の出来事は、明らかに、日本人への人種差別でしかなかった。日本と同盟国であった国の人たち、イタリア系アメリカ人、ドイツ系アメリカ人たちは、誰一人、強制収容されていない。アメリカに渡った親たちは日本人であると自覚し、アメリカで生まれた子供たちは、自分たちはアメリカ人だと主張する。アメリカで生まれた日系の若者たちは、アメリカに忠誠を誓い、第442連隊戦闘団を結成し、ドイツ、イタリア、日本を相手に戦い、アメリカ陸軍、最強の戦闘部隊と言わしめた。多くの戦死者を出しながらも、これぞヤマト魂だ!と証明した。しかし、親と子は悲しい不条理な世界を体験することとなり日系人たちは涙を堪え我慢する事しか方法がなかった。日系人の間では、「仕方がない」と言う言葉がはやり言葉となり口癖となった。

こうした悲しみの記録は、1988年、ロナルド・レーガン大統領によって、強制収容された日系アメリカ人に謝罪し、現存者に2万ドルの損害賠償を支払い、人種差別であったことを認めた。強制収容からほぼ半世紀が経とうとしていた。

カリフォルニアのマンザナ収容所に強制収容された写真家の東洋宮武氏は、内緒で収容所にレンズを持ち込み仲間と木で組み立てた手製のカメラを作った。彼の友人であった写真家の巨匠アンセル・アダムスとマンザナ収容所の所長とは友人であった。お互いの友人でもあったことから、所長は、宮武に「写真家がカメラを持たないのは、羽を持たない鳥と同じ」とカメラの所持を内緒で許してくれた。フイルムも他の者に見つからないように手筈してくれた。東洋宮武は記録写真を撮り続けた。友人の写真家アンセル・アダムスもマンザナ収容所を訪れている。1945年、終戦を迎え、マンザナ収容所は閉鎖された。

40度近い砂漠の中での灼熱の悪夢は終わった。イサムと宮武は、晩年、ロスで会い晴れ晴れとした笑顔で二人並んで写真に収まっている。 

マンザナ強制収容所に設けられた慰霊碑 (Wikipediaから転載)

その6>>

*本稿は日墨協会 のニュースレター『Boletin Informativo de la Asociación México Japonesa』144号(2010年7月)からの転載です。

© 2010 Koji Hirose

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