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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

詩歌とエッセイの文芸誌『ハートマウンテン文藝』 -その1/5

はじめに

アメリカにおける日本語文学は多くの人々にとって今なお未知の分野であるとはいえ、その太平洋戦争以前の状況については『在米日本人史』(1940)あるいは『アメリカ移民百年史』(1962)などの歴史書を通して、ある程度の知識を得ることができる。

しかし太平洋戦争中の日本語文学となると、これに言及する書物は極めて少ない。戦時中の強制収容所に関しては日米両国で多くの研究がなされ、回顧録も出版されているが、その中に住む人々の文学活動、とりわけ日本語による文学活動について触れるものはほとんど見られないのである。篠田左多江氏の一連の研究論文と山城正雄『帰米二世』(1996)、「鉄柵」(『羅府新報』1991年1月29日)、野沢譲二「『鉄柵』の思い出」(『南加文藝』創刊号、1965)などの回想録があるにすぎない。

また、戦時中の文学作品そのものを手に入れることも非常に困難である。1995年にヴァイオレット・一恵・デ・クリストフォロ(松田一恵)が『さつきぞら あしたもある』を京都で出版したが、このような戦時中の作品の出版はまれなことである。「アメリカ日系人強制収容所俳句集」と副題が付され、いくつかの収容所で詠まれた作品が集められている。この句集以外に今まで佐々木ささぶね『抑留所生活』(1949)、加川文一『加川文一詩集』(1982)などが出版され、そこには戦時中の作品も含まれているけれども、アメリカの日系コミュニティの小さな出版社から出ている書物なので、日本の読者にとって入手は難しい。

このような状況の中で今回、強制収容所の文学雑誌の一つとして『ハートマウンテン文藝』が復刻されるが、これを機会にこの雑誌の内容を検討し、戦時中に作り出された日本語文学の一端を明らかにしたいと思う。

1.ハートマウンテン収容所

ハートマウンテンをのぞむ収容所全景、1944年冬(サタロウ・トウナイ氏提供)

この収容所は「平等の州」という別名を持つワイオミング州の北西部に位置する、ハート山が一望できる荒れ果てた高原に建設された。その広さは焼く46,000エーカー(約186平方キロメートル)で、連邦政府開拓事業指定地域の中にあった。収容所に近い町としてコウディ(Cody)(バッファロー・ビルがつくったといわれている)とパウエル(Powell)があり、コウディからは20キロメートル、パウエルから32キロメートル離れていた。1942年8月12日に開設され、1945年11月10日に閉鎖されている。人口は最大事に10,767名となり、ワイオミング州では第3番目に大きい都市であった。そしてアメリカで生まれ、アメリカの市民権を持つ人々がその人口の3分の2を占めていた。

収容された人々の主な出身地を見ると、ロサンゼルスが6,448名、サンタクララが2,572名と多く、そのほかサンフランシスコとワシントン州ヤキマからの立ち退き者がそれぞれ678名、843名となっている。仮収容所別ではカリフォルニア州ポモナとサンタアニタからの人々が大多数を占め、それ以外にオレゴン州ポートランドからの人たちが約1,000名いる。入所前の職業は農業経営が最も多く、ついで農場労働、家庭労働、果菜卸小売業と続く。

収容所には日系人以外に約200名のWRA(戦時転住局)の職員が働いていた。彼らの多くはワイオミング州の人たちで、日系人とコミュニティを共有することなく、その大多数はコウディやパウエルに住居を持っていた。職員の中で、1家族だけが収容所内の学校に子供を通わせていたという。

収容所に到着した人々がまず驚いたのは、荒涼たる周囲の光景であったが、収容所での生活そのものも厳しかった。その一つは初めて迎えた冬の寒さである。9月末には雪が降り、風が止まず、気温はしばしば摂氏零下30度まで下がった。ワイオミングの歴史の中でも最も厳しい冬だったといわれている。暖かいカリフォルニアの気候に慣れていた住民にとっては大きな苦痛であり、150床の病院は病人であふれた。このような厳しい冬に対するWRAの準備も十分ではなかった。急造のバラックは断熱材が使用されず、隙間が多くて寒風が容赦なく入り込んだ。ストーブはあったが石炭の供給はきわめて不十分で、住民の間で取り合いとなった。衣服の支給も遅れた。その上、食料が不足し、食事係の責任者が解雇される事態にもなっている。これが最初の冬の、入所後間もない生活だった。その後、1942年の末前に衣と住については一定の改善が図られたけれども、食については1943年春の農業プロジェクト開始まで待たなければならなかった。

ハートマウンテン収容所を「幸せなキャンプ」と呼んだ人たちがいたが(Audrie Girdner and Anne Loftis,  The Great Betrayal, 1969)決してそうではなかった。確かに西海岸での日々の厳しい労働から解放され、収容所では住居や食料、衣類、医療などが一定保証された生活であった。自由な時間も十分あった。しかし有刺鉄線に囲まれ、監視塔の兵士からいつも見張られている生活であり、WRAの方針への抗議や抵抗と住民内部での不和や対立が様々な形を取って、絶えず存在していたのである。

まず1942年10月、住民は有刺鉄線による包囲を不当な措置として、約3,000名の署名を持って当局に抗議した。11月、石炭運搬者たちが安い賃金に対して、また病院で働く人たちが白人よりも低い賃金に抗議してストライキをおこなった。12月、有刺鉄線の外で遊んでいた子供たちが逮捕され、大人たちの不満を募らせた。1943年1月、協同組合方式の商店説立案に対して反対運動が起こった。そして1943年2月の忠誠登録の実施によってWRAへの抵抗が最も鮮明な形を取って現れるのである。

1943年2月、フランク・イノウエを中心として「ハートマウンテン市民会議」(Heart Mountain Congress of American Citizens)が結成された。アメリカ市民としての権利が否定されている状況の下では、徴兵のための二世の忠誠登録に反対する、というのが彼らの主張であった。彼らはWRAの方針に協力するJACL(全米日系市民協会)の指導に異議を唱え、日系人部隊設立の提案には人種差別であると反対した。運動の結果、二世は7人に一人の割合で、忠誠登録を拒否した。

その2>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

heart mountain Heart Mountain Bungei Japanese Japanese literature

About this series

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。