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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『若人』 ―帰米二世文学の芽生え- その5/5

>>その4

『若人』第三号は8月30日に発行された。編集部によれば、戦時転住局はすべての作品を翻訳し、英文と和文の両方を掲載すべきであると主張したという。しかし、双方の折衝の結果、従来通りの形式で許可された。青年会の会員は大部分がトゥーリレイクへ隔離されることになっていたため、戦時転住局はその動向に必要以上に神経をとがらせていたと思われる。

この年の夏はとくに猛暑で、温度計が破裂して水銀が飛び散るほどであったが、編集者は最後を飾る立派な雑誌を発行しようと暑さの中で奮闘したという。これまでは毎号とも40ページ弱であったが、第三号は70ページになった。このなかで野口蒼平は「砂漠に咲く花」を書いている。彼は、1943年5月失踪した一世老人の捜索隊に加わる。5月の砂漠はさまざまな花が咲いており、それをひとつずつ丹念に観察して行く。ごくありふれたセイジブラッシュの花は黄色く可憐、モスキートトゥリーの花はアカシアに似ているとか、花を愛する気持が読者に伝わる。普通なら目をとめることもない雑草の花も、収容所という特殊な環境にいるからこそ、その美しさが見えてくるのであろう。多くの人びとが探索したにもかかわらず、老人は発見されなかった。作者は、実は老人が見つからないことを願っているのである。そしてモンタナへ去った息子の後を追った老人が貨物列車にひらりと飛び乗って、愛する息子のもとへ着いてくれればよいと空想したりする。その姿はいつしか作者の今は亡き父の姿と重なる。作者は16年前、日本の父に親不孝の限りを尽くして別れ渡米したのであった。そして30歳を過ぎた今、地の果てまでも父を訪ねて行きたいという思いにかられる。前号の「母の日に」では母への、「砂漠に咲く花」は父への想いを綴った佳作である。

「比良の月」は収容所の中での若者たちの恋愛を映画風にアレンジした作品で、たぶん自分の経験を書いたと推測される。作者田村秀一はロサンゼルス生まれの帰米二世で、日本で商業学校を卒業後、アメリカで高校及びジュニアカレッジを卒業した。専攻は航空工学で、高校時代はアメリカンフットボールのスタープレイヤーであったという。

三冊の『若人』を通じて力作を載せているのは、伊藤正である。先に述べた野口蒼平は伊藤のペンネームであるから、作品の数は三冊中もっとも多いことになる。伊藤はハワイ生まれの帰米二世で、父は岩手県の出身であった。第一号で彼は、人種にかかわりなく人間として誠実に生きることの大切さを訴えてる。このほか彼は、短編「父の言葉」のなかで、帰米二世と純粋二世の兄弟が忠誠登録に際し、不忠誠と忠誠に分かれ、弟は志願兵となる父子関係を描いている。父は兄弟に対し、自ら信じるところに従って人間として誠実に生きよと説く。第三号では「転住所風景」と題して戯曲の形式で、日ごろから作者の気にかかっていた収容者内の現実を描き、問題を提起している。彼は所内の人びとの心がすさんでいくのを見て、書かずにいられなかったと述べている。登場人物は第一部が老人と若い男のふたり、第二部はこのふたりに母子と数人の男が加わる。老人は、「愛国行進曲」のレコードをかけて故国を偲んでいたところ、当局に密告されて、レコードを没収されたと嘆く。老人にとって「愛国行進曲」は、日本の軍国主義を鼓舞するものではなく単に故郷を偲ぶよすがにすぎない。老人にとってその歌が合衆国を害する危険なものであるとは思えなかった。なぜ密告という行為で、日本人同士が裏切りあうのか。若い男は、日本人のなかには戦時のアメリカにいることもわきまえず非常識な行動をして、しかもそれが日系人全体を傷つけているのに気づかない者がいる、と暗に老人を批判する。二人の議論はすれちがい、お互いに理解し合うことはできない。

第二部では急病の子をもつ親に頼まれて、老人が病院へ走り往診を頼む。しかし、診療時間の終了を理由に医師は来ない。そこで人びとの医師への不満が爆発する。医師の報酬は一ヶ月わずか19ドルで、献身的に働く人もいれば、威張って人を見下す医師もいる。しかし、収容者側も病気でないのに往診を頼んだり、病院に押しかけたりする者もいる。また、医師の報酬の少なさを補うために患者が25セントずつの謝礼を集めるという話もあるが、どうも納得できない。人びとは口ぐちに日ごろの不満を言いあう。しかし、老人は次のように言う。「キャンプに収容されたことも、安い賃金で働かされることも、私たちの責任ぢやない。それは私たちの力ではどうにもすることの出来ない、はるかに大きなものの責任です。……いくら踠いて見たところで、私たちのか弱い力ではそれをどうすることも出来ないのです。……それよりも私たちは、私たちが出来ることを、私たちに許されたことを、力の限りを尽してやつて行く――互ひに扶け合ひ忍び合つて、明日の希望を胸に抱きしめて生きて行く。そして平和に日を静かに待つてゐる。それが私たちの最善の道ぢやないでせうか」。伊藤は、最終的にはこのような形で納得せざるをえないことは分っているが、収容所が抱える多くの問題を、この戯曲を通じて訴えたかったのであろう。そして誰もがこれらの不満に共感し、さらにいかに生きるべきかを考える契機となればよいと考えたのであろう。伊藤は自分も含めてまわりの善良な人びとが、収容所生活によって次第に自暴自棄のひねくれた人間に変ってしまうのに耐えられず、これを書かずにはいられなかったのであろう。これらの作品から伊藤が正義感の強い青年であったことがうかがえる。

『若人』は先に述べたように、編集メンバーがすべて合衆国に不忠誠を表明してトゥーリレイク隔離収容所へ移送されることになったため、三号で終刊を余儀なくされた。これは比良男女青年会の機関誌で、青年たちを啓蒙することが目的であった。したがってほとんどが20歳代の若者によって書かれていて、短歌や俳句は少ない。第三号になるとその内容は大部分が創作で占められている。その中には、淡い恋心や失恋の悲しみを紛らわそうと書いたと思われる抒情的な作品「手紙」「黄昏に嘆く」「乙女の唄」や、収容所生活のひとこまを面白おかしく描いた軽い読物「野球フアン」「食堂川柳」などがある。伊藤正の「転住所風景」などは28ページにわたる戯曲で、この作品があるためにこの号は文学誌という印象を強くしている。『若人』全体を見通すと、機関誌的な性格を持つ雑誌から文学誌へと移り変っているのが明らかである。この活動はわずか半年で終わるが、文学を生む努力はトゥーリレイク収容所で再開され、青年団の機関誌『怒濤』、文学誌『鉄柵』へと発展していくのである。そうした点で『若人』は、収容所において帰米二世文学を芽生えさせる重要な役割を果したのである。

最後にその他の文学作品発表の場について述べると、ヒラには他の収容所と同様に所内の新聞『ヒラ・ニューズ・クーリエ』及びその日本語版『比良時報』が週三回発行されており、その中に英語と日本語の作品が掲載されている。しかし英語で書かれたものはごくわずかである。また、1943年から月刊川柳誌『志がらみ』が発行されて、おもに一世の作品発表の場となった。

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

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About this series

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。