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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

青年活動から生まれた文芸誌『怒濤』-その1/5

トゥーリレイク収容所は、日本語出版物のもっとも多い収容所である。文学誌の性格をもつものは『怒濤』および『鉄柵』のほか、短歌誌『高原』がある。『高原』は泊良彦の主宰する「東津久仁短歌会」の短歌誌である。単行本では加川文一の随筆集『我が見し頬』、矢尾嘉夫の歌集『歸雁集』、泊良彦の歌集『渦巻』が発行された。

複数の日本語雑誌があるのはこの収容所のみで、これらの雑誌は収容所が「隔離」収容所となった1943年7月15日以降に発行された。「隔離」とは、同年2月に実施された「忠誠登録」で合衆国への忠誠を拒否した人びとを、他の忠誠な収容者から隔離することを意味する。その結果、トゥーリレイクは他の9ヶ所の収容所とは異なった性格をもつようになった。他の収容所では忠誠登録ののち、戦時移転局および収容者の双方で外部への再定住のための情報提供や準備が行われたが、トゥーリレイクでは日本への送還を希望する人が多かった。43年11月には収容者の手で国民学校が創設され、二世を対象に日本人教育が行われた。ここではアメリカ国内への再定住ではなく日本へ行くための準備がなされたのである。

日本語雑誌はこのような状況のもとで生まれた。『鉄柵』は戦前に『收穫』創刊の中心人物であった加川文一の助言のもとに三人の若い帰米二世、山城正雄・河合一夫・野沢穣二が編集した文学誌である。一方の『怒濤』は文学誌ではなく「鶴嶺湖男女青年会」の機関誌であった。これはかつてヒラリヴァーで結成された「比良男女青年団」のメンバーが、トゥーリレイクで再編成した団体である。『怒濤』は帰米二世の藤田晃・橋本京詩によって編集された。『鉄柵』は『カリフォルニア日系人強制収容所』(白井昇、1981年)のなかで紹介されているが、『怒濤』は『鉄柵』の陰に隠れて、その姿はほとんど明らかにされていなかった。このたび日系文芸人のご厚意によって全号を復刻して保存することが出来たのは、意義深いことである。

1. トゥーリレイク隔離収容所の環境

トゥーリレイク収容所はカリフォルニア州東北部のオレゴン州境の近く、ニューウェルという小さな町のはずれにあった。レイクといっても水をたたえた湖ではなく、ここが太古に湖の底であったことから名付けられた。あたりにはペリカンなどの水鳥の群れる湿原があり、トゥーリと呼ばれる葦の一種が生い茂っている。かつてこのあたりに住んでいた先住民は、この豊富なトゥーリを住居や生活用品の材料として利用していた。この収容所は「ツールレイク」「ツーリレーキ」など様々に表記されるが、現地ではトゥーリに由来してトゥーリレイクと発音する。

湿原がある一方、その先には不毛の乾燥地帯が広がっており、収容所はその乾燥した湖底にあった。収容所の入り口に立ってはるかかなたを見渡すと、正面にあわびの形をした巨大な溶岩丘が横たわっている。これはその形からアバロニ・マウンテン(鮑ヶ丘)と呼ばれて収容所のシンボルとなっていた。収容所内の土壌はきわめて荒く赤茶色で、溶岩を砕いて敷き詰めたのではないかと思われるほどである。歩くとざくざくと音がして、足首まで埋まってしまう。樹木の類はまったく見当らず、唯一の緑といえば、強い香りを放つヨモギの一種であるセイジブラッシュがまばらに生えているだけである。

収容所の西には、通称「キャプテン・ジャックの砦」という先住民モドック族の古戦場キャッスルロックが聳えている。1873年、女性や子供を含む175名のモドック族は、このあたりの溶岩台地にたてこもって約1,000名の合衆国軍と戦い、滅亡した。合衆国のインデイアン政策に最後まで武力抵抗して滅亡したインディアンの古戦場と、合衆国に不忠誠な日系人隔離収容所が隣り合わせているのは、歴史の皮肉といえよう。

収容所は面積1万2,955ヘクタール、最大時には18,762名を収容した巨大な人工都市であった。他の収容所と同様に周囲には監視塔があり、武装した兵士が24時間見張りに立ち、銃口を収容所の内部へ向けていた。1943年7月に隔離収容所に指定されたのち、10月から収容者の交換が始まった。各地の収容所から1万2,000名の不忠誠者が送り込まれ、同数の忠誠者が収容所を去った。その後、44年3月にはマンザナー収容所から、11月にはハワイの抑留者が到着した。同時に6,000名の忠誠者も残留していた。移動の結果、1万5,000名の収容能力のところに約1万9,000名が住むことになり、過密な状態で暮らす人びとの間にいらだちがつのった。

住宅事情の悪化と不忠誠者になったという疎外感から、収容者は何かにつけて管理者側と対立した。とくにここでは忠誠登録を実施する際の管理当局のやり方が威圧的で強引であったことから、帰米二世の若者が当局への反発を強め、住民に登録拒否を強要したという経緯があった。そして他の収容所と比較して不忠誠者が多く、隔離収容所に指定される結果となった。43年11月、収容所の管理をめぐって戦時転住局と住民代表の会議が決裂し、それに群集心理に動かされた人びとが加わって騒動に発展した。さらにトラックの横転事故で死者が出る不幸なできごとをきっかけとして、収容者と当局の対立は決定的局面を迎え、すみやかな収拾は不可能と判断した当局は収容所を軍の管理下においた。住民の意見は、あくまでも戦時転住局と対決する姿勢を崩さないとする「現状維持派」と、意地を張らずに当局と協力して収容所を改善しようとする「現状打破派」に二分された。解決へ向けて住民投票が実施され、「現状打破派」が勝利した。しかし、この二派の対立は最後までしこりを残し、この後の収容所生活を暗いものにしたのである。

その2>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

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About this series

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。