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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

詩歌とエッセイの文芸誌『ハートマウンテン文藝』 -その5/5

その4>>

(5)その他

詩は全部で25編ありが、素朴なものが多く、完成度の高い作品は極めて少ない。良き指導者に恵まれなかったことがその原因かもしれない。良秋(岩室吉秋)が6編の作品を発表しているほかは、ほぼ一人一編である。季節の風景を歌う作品がもっとも多いが、収容所生活の憂いと悲しみ、収容所生活ゆえの南カリフォルニアへの郷愁、平和を願う心などを歌う作品も目立つ。恋の詩も数編見られる。

H・N生「アラバマの空」と常石芝青「大悲心山」は心を打つ作品である。「アラバマの空」では幽囚の身の悲哀と自由への憧れが、また「大悲心山」では慈母としてのハート山の姿が、いずれもやや古風な表現を通してであるけれども、読者の心に強く訴えてくる。山本幸枝「友隔離所に移される」は素朴な「詩日記」であるが、トゥーリレイクに向かう列車を見送る人の心境がよく描かれている。

創作はこの文芸誌の性格上、掲載されにくく、わずか2編で他に掌篇が「三題」あるにすぎない。吉川国雄の短編「残った者」は優れた作品である。メス(食堂)で働く兄(帰米二世)の所へ転住してデンバーにいる弟から手紙がくる。母を引き取りたい、しかし英語の下手な兄さんは仕事を探すのが大変だから駄目だ、という。弟はアメリカの文化を生きている人である。兄は死んだ父の代わりに家族を支えてきた生活を振り返る。彼は母に弟の所へ行きたいのかどうかを問う。迷う母に、兄の妻が留まるように説得し、母もそれを受け入れる。弟と妹が外へ出て困らないのはお前のおかげだ、といった母のことばを兄は思い出し、うれしく思う。この短い作品の中で収容所の日系人家族が当時抱えていた問題が浮かび上がってくる。一世の高齢化と世代交代、二つの文化の対立、転住を巡る葛藤などが具体的な家庭問題として、家族同士のこまやかな配慮と抑制された反発心の錯綜を通して描かれているのである。

前田静江「星への頼り」は志願兵として出征した夫への想いを綴る、素朴であるが印象的な作品である。最後の章は一見唐突にみえるが、ここで物語上の大きな時間の変化が示され、「現在」の夫の状況が明らかにされて、作品の締めくくりとして効果的である。「私」が「アメリカ兵としての日本人の貴方の力を信じます」と記す中に、作者のメッセージを読み取ることができるだろう。戦時における二つのアイデンティティの統一の物語となっているのである。これら2編の短編は身近な家族のことを書くということが、必然的に日系人全体が抱える問題について書くことになるということを主張しているように見える。

『ハートマウンテン文藝』で忘れられないのは画家エステル・イシゴ(Estelle Ishigo)(1899-1990)の存在である。白人である彼女は美術学校で二世のアーサー・シゲハル・イシゴと出会い、異人種結婚が禁じられていたカリフォルニアを一時的に出て結婚し、再びカリフォルニアに戻ってきて日系社会の中で暮らしていた。日米開戦後、夫と共にポモナ仮収容所に、次いでハートマウンテン収容所に入り、収容所が閉鎖されるまでそこで過ごした。その間、エステルは多くの画を描き、立ち退きから収容所を去るまでの日系人の生活を記録した。彼女の作品『ロウン・ハートマウンテン』(Lone Heart Mountain)(1972)はミネ・オークボの『市民13660号』(Citizen 13660)(1946)と共に、画と文章による収容所の記録としてよく知られている。『ハートマウンテン文藝』の表紙のすべての画と多くの挿絵は彼女の描いたものである。そこにはこの収容所における人々の日々の生活が共感を込めて生き生きと描かれている。これらの画によって、この雑誌は他の収容所のものとは異なった独自の趣と魅力をもつ文芸誌となっている。

5. 『ハートマウンテン文藝』の意義

今まで述べてきたことをまとめる意味で、この文芸誌の意義として二つの点を指摘したい。まず文学的観点からいえば、この雑誌が収容所における各種の文芸結社と文芸愛好者たちを結集する場としての役割を果たすとともに、戦前の日系日本語文学の到達点を特に短歌と俳句という短詩型文学の分野において強く引き継ぎ、戦時中の文学として展開したことであり、それを一世と帰米に生の協力によって成し遂げたということである。組織的にこれらの結社を統合して「ハートマウンテン文藝協会」を結成することはできなかったけれども、それだけにこの文芸誌が各結社の共通の作品発表機関として機能し、収容所内の文学愛好者たちの結束を図る役割を担っていたといえる。

既に述べたように、詩歌とエッセイを特徴とするこの雑誌は、全体としてその文学的水準は決して高いとはいえない。しかし短歌と俳句においては作品を発表する人が多く、優れた作品もかなり見られる。これはいうまでもなく、戦前から活躍していた高柳沙水、常石芝青という良き指導者がいて、彼らから直接、指導を受ける機会に恵まれていたからである。編集責任者であった帰米二世の岩室吉秋も高柳沙水が主宰する心嶺短歌会の会員だった。良き指導者の存在のよって戦時のこの収容所においても短歌・俳句の愛好者層が拡大し、その質的向上が図られたのである。

なお戦後、高柳沙水はロサンゼルスへ戻り、『羅府新報』の「歌壇」の選者を務めるなど、歌人として活躍した。常石芝青も『羅府新報』の「俳壇」を担当するとともに、『北米俳句集』(1974)を編集している。また岩室吉秋はシカゴへ転住し、保険業を営むかたわら「日系人社会の文化生活の向上」を目指して、文化文芸誌『日系文化』を1948年に創刊した。高柳沙水が短歌を、常石芝青が英詩の日本語訳を寄せている。大久保忠栄もシカゴへ転住し、『シカゴ新報』に随筆や評論などを寄稿した。

『ハートマウンテン文藝』のもう一つの意義は歴史の記録としてのそれである。文学はそれを創る人の思想や心情を表現する。たとえどのような文学的装いをこらそうとも、作者の思想や心情は自ら現れるものである。したがってこの雑誌に掲載された多数の作品は、収容所に隔離された日系人が当時の特殊な状況の中で、何をどのように考えていたかを示す資料である、記録である。そしてまた、人々が何を考えなかったか、何を書こうとしなかったかをも示す資料であり、記録でもある。この解題文では作品の簡単な分析を通して、人々の思想と心情を若干明らかにしたが、いっそう厳密で広範囲な作品の分析を行うならば、ハートマウンテン収容所の人々の心的状況がより鮮明になり、いくつ物新しい発見も可能となるであろう。

日系文学の関わりでいえば、この歴史の記録としての『ハートマウンテン文藝』は一つの重要な事実を明らかにしてくれる。松田露子(1904-1950)の消息である。松田は1930年代に活躍したロサンゼルス在住の一世の女性詩人であり、社会意識の強い作風で知られている。彼女は『羅府新報』『加州毎日新聞』『收穫』に積極的に作品を発表し、在米沖縄県人会機関誌『琉球』の編集とそこでの執筆を精力的に行っていた。その松田がこの収容所にいた。しかし、かつて同じ文芸連盟の会員としてお互いに知っていたはずの大久保忠栄が編集する『ハートマウンテン文藝』には一切関わらず、画を描いていたのである(岩室吉秋「絵画展覧会印象記」、2月号。前途を嘱望されていた女性詩人が詩作を放棄した理由は不明であるが、立ち退きとそれに続く収容所生活が深く関係していたことは十分想像できる。戦争が有望な一人の文学者の運命を変えたのである。松田は1950年、転住先のシカゴで絵筆を握りながら急逝し、46歳の生涯を閉じている(『北米沖縄人史』、1981)

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

heart mountain Heart Mountain Bungei Japanese Japanese literature

About this series

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。