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「忠誠」の意味

1990年に公開されたハリウッド映画『愛と悲しみの旅路』(アラン・パーカー監督)は、アイリッシュ系の夫を持つ二世の女性を主人公に、彼女が娘に戦前・戦後の家族の体験を語って聞かせる形で、強制収容政策に翻弄される人びとの姿を描き出した。日系社会の情報を当局に流したのではないかという周囲の疑惑の目に追い詰められて自殺する一世の父親、アメリカへの忠誠を示すために従軍する長男と政府への反発から収容所内の抗議運動に加わる弟。終盤、家族に長男の戦死の報が届き、戦後、次男はひとり日本に「送還」される。映画は「アメリカへの不忠誠=日本への忠誠」というありがちな判断を避け、日々の生活の中で極めて現実的な選択をしていく人びとの動きを淡々と描いていく。

1943年2~3月、収容所で忠誠登録が行われた。日系人総数約11万人(うちアメリカ市民である二世が7万人)、忠誠登録の対象となった17歳以上は約4万人であった。そのうち、「アメリカに忠誠」と答えた者は3万人、No回答は5,000人余、その他は登録拒否、条件付き回答(いずれもNoとして扱われた)であった。その後、Noと答えた者と日本への帰国を希望する者とその家族は北カリフォルニアのツール=レイク収容所に隔離され、1944年には5,700名余の二世がアメリカの市民権を放棄し、2,000名余の「元市民」を含む8,000名が1945年11月から翌46年6月、日本に「送還」される。

アメリカへの忠誠を拒否し、アメリカ市民権を放棄し、日本へ「帰国」する。この行為がアメリカに対する「不忠誠」の表明であると捉えられたためか、日系アメリカ人の歴史の中でも殆ど触れられることがなく、近年まで当事者がその経験を語ることも少なかった。

佐々木真杢(1923~1996)はアメリカで生まれ、日本で育った「帰米二世」であった。アメリカに戻って数年で開戦の日を迎え、強制立ち退き・収容、忠誠登録を経て隔離収容所へ移送され、市民権を放棄して1945年に日本に「送還」された。彼の日記には、アーカンソー州の収容所で迎えた1943年の元旦から、1945年11月20日、司法省の抑留所から日本に向かう前日までの雑感が綴られている。1943年3月1日の欄には「いよいよ今日からは日本人か又米国人かの分け目の登録が始まった。興味百パーセント。ランドリー会議便所会議等々」と記されている。メモ欄には「今度の登録はイヘスの人はイヘス、ノーの人はノーで良いのだ」とあり、「米政府の萬事に對する行ひ方はとうてい吾々日系米国市民として支援するにあたはずとなし此の際あっさりと立派な日本人となってしまふの一策もあり」とまとめられている。

1944年12月7日「来たぞ、来たぞ。待望の市民権放棄が。午後一時頃より夕方まで聴聞会に出頭した。残るは近日中に華府から着く用紙に署名すればよいのだ。」アメリカ政府では、「不忠誠」な市民の戦後の取り扱いが問題となっていた。アメリカ市民を日本に「送還」するために、アメリカ生まれの市民を外国人化する、アメリカの歴史上類例を見ない政策が始まった。

1950年に司法省内部で市民権放棄に関する報告書が作成されている。アメリカ政府が想定していた放棄者数が300名程度であったことが示され、それを大きく上回る5,700名もの放棄者が出たことに担当官たちが驚いた、と記されている。忠誠登録の時と同じく、家族の事情、個人的な思いなどが背景にあったものと思われるが、佐々木の日記にもあるように、申請は郵送で行われ、本人が書いたものかどうかの確認もなしに、市民権放棄という重要な内容が次々に承認されていった。

市民権放棄、日本への帰国は、追い詰められた結果とはいえ、あくまでも当人たちの「希望」であったとされた。帰国の日時が通告された後も「今になって当副所長曰、今にても帰国取消した希望者は当ホールの役員に申出よと(11月19日)」佐々木は「此の裏面には確か何かがある」と政府の意図を測りかねている。

アメリカ政府は当初、すべての市民権放棄者を日本に「送還」することを考えていた。だが、これらの放棄者のすべてがアメリカを離れることを望んでいたわけではない。承認される前から申請取消の希望が寄せられ、その願いがかなわぬと知って、その後、「送還」停止と市民権回復を求める集団訴訟が起こされた。

日本に戻った佐々木は、収容所内で通信教育で学んだ電気機器取扱の技術を活かして店を構え、日本で生きた。だが、彼のような場合は寧ろ例外で、「帰国」した多くの日系人にとって日本での生活は苦しいものだった。日本に送られた人びとの大部分がその後、アメリカに「帰国」し、日本に残った者も含めて市民権の「回復」は進められた。1959年の時点で、5,766名の全放棄者中5,409名が回復の申請を行い、4,978名が認められ、347名が拒否されている。だが、日系社会の彼らに向けられる目は冷たく、「帰国」後の生活も安らかなものではなかったようである。

最後に、ひとりの白人の弁護士を紹介しておきたい。サンフランシスコで活動していたW.M.コリンズ(1900-1974)、日本では東京ローズの裁判を担当したことで知られている。1945年11月、彼を原告側代理人とし1,000名の市民権放棄者が日本への送還停止と市民権回復を求める二つの集団訴訟を起こした。その後も次々に放棄者がこの集団訴訟に加わる。彼は5,000名余もの人びとに市民権を捨てさせた主たる原因が強制立ち退きから忠誠登録、ツール=レイクへの隔離へと続く政府の政策にあったと怒りを込めて告発した。最終的に政府は、多くの市民権放棄が自由意思によるものでなく、周囲からの圧力によるものであり無効、とすることで決着を図った。こうしてコリンズの集団訴訟は切り崩されてしまったが、彼の精力的な支援が無ければ、市民権の回復は困難であったろう。冒頭に述べた映画のヒロインの夫は、彼女との関係の中で初めて日系人に対するアメリカ社会の偏見と差別を知り、怒りを込めて共に闘う姿勢をとるようになる。コリンズ弁護士の姿にも重なるものがあるように思われる。

強制収容政策に対するリドレス(補償)には、これら市民権放棄者や日本への「送還」者も含まれていた。

*本稿は、国立歴史民俗博物館による編集・発行、特集展示『アメリカに渡った日本人と戦争の時代(図録)-Japanese Immigrants in the United States and the War Eraー』(2010)からの転載です。この展示は、2011年4月3日(日)まで開催しています。

© 2010 National Museum of Japanese History

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