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「ポストン・ソナタ」の訴え -グレン・ホリウチさん-

日系四世のジャズ・ミュージシャン、グレン・ホリウチさんのアルバムを、このところ何度も立て続けに聴いていました。先月、ホリウチさんと演奏活動を共にしていたリリアン・ナカノさんについて書いたのがきっかけです。

聴いていたのは「ネックスト・ステップ」「イッセイ・スピリット」「マンザナ・ボイシィズ」「ポストン・ソナタ」「オックスナード・ビート」「ライブ・イン・ベルリン」「ケンゾーズ・ビジョン」「コーリング・イズ・イット・アンド・ナウ」「ヒルトップ・ビュー」「マーシー」「パチンコ・ドリーム・トラック10」「フェア・プレイ」(年代順)など。中にはバラードやブルース調の曲もありますが、大半は何といってもアバンギャルド・ジャズ(フリー・ジャズ、インプロビゼーション・ジャズ)です。何かを考えさせ、何かを訴え掛けてくる曲の数々。これらの曲の一つひとつに耳を傾け続けているうちに、ホリウチさんのような戦後生まれの日系人に、第二次大戦時の強制収容という事実が投げ掛けていた影の大きさに、あらためて気付かされたのでした。そうした日系の三世や四世が収容に対する謝罪と補償を求める運動を突き動かしたのですが、その理由が今、ホリウチさんの音楽を通じて、やっと少し実感として理解できたような気がしています。

1955年、シカゴ生まれ。リリアン・ナカノさんの話の中で触れたように、ホリウチさんはナカノさんの甥です。幼少のころ、祖父のサブロー・スギタさん(ハワイ出身の二世)から日本の歌を聞かされて育ちました。スギタさんは尺八奏者であり、浪花節の名人として、ハワイのラジオに出演したり、収容体験を語る曲を書いているほどです。

ホリウチさんは幼少時からピアノを習っていたのですが、クラシックが主で、ジャズに関心を持つようになったのは高校を卒業してから。その後カリフォルニア大学リバーサイド校に進学し、数学を専攻しました。大学では、1970年代という時代的な背景もあり、アジア系のグループに加わって政治的な活動に関与するようになりました。

そんな状況の中、ホリウチさんは1977年、音楽を続けていくことをあきらめます。学業と政治活動に時間を取られ、音楽のための時間がなかなか取れなかったためですが、それに加え、黒人を中心とする公民権運動の中でフリー・ジャズへの関心が社会的に高まっていたことも影響したのでしょう。

そして、NCRR(全米補償賠償連合)の創設メンバーの一人として加わりました。その後NCRRの活動を続けていたのですが、1981年、一つの転機が訪れます。ロサンゼルスで開かれた補償問題に関する公聴会でした。大勢の元収容者に加わって、ホリウチさんの祖父と父親も証言しました。つぶさに耳にする収容という実態の詳細。ホリウチさんは打たれました。この体験を大勢の人たちに知ってもらいたい。この事実に目を向けてもらいたい。そう、自分には音楽がある。ホリウチさんは再びピアノに向かいました。クラシックではなく、自分の意見をもっと直接的に打ち出すことができる音楽形態としてのフリー・ジャズです。

ホリウチさんの音楽活動は、大学の活動で知り合った他のアジア系のミュージシャンらとの共演へと広がっていきました。そしてNCRRの活動を通して知り合ったエドナさんと結婚。息子のケンゾー君が生まれます。しかし、大きな悲劇が待ち受けていました。がんです。確認された時には、すでに大腸から肝臓へと広がっていました。そして2000年、45歳という短い生涯を閉じたのでした。

ホリウチさんの代表的なアルバムの一つ「ポストン・ソナタ」(1992年、スタジオ録音版)に「ブルース・フォー・ジョン・オカダ」という曲が収められています。ジョン・オカダは「ノーノー・ボーイ」と題する小説を残した日系二世の作家ですが、その小説の中に、終戦で収容所から出てきて生活の立て直しを図る主人公が、自分に語りかける言葉があります。「日本という力が弱かった」というものです。多くの二世たちは強制収容のため、この「日本という力」を自分の内に見いだすことができなかったということでしょう。加えて、戦後の日系史は日本的であることを否定するところから始まったともされています。こうした状況の中で育ったのが、戦後生まれの三世や四世でした。彼らの困惑は、計り知れないものがあります。

その困惑を解こうとしたのが政治的な活動であり、実際に困惑を解いたのが、ホリウチさんにとっては、戦時収容についての公聴会における証言でした。言うならば、ホリウチさんは公聴会で、ジョン・オカダの「ノーノー・ボーイ」がついにつかみ得なかったもの、つまり「日本という力」をつかんだのではなかったでしょうか。そして、それが音楽への復帰につながった。「ポストン・ソナタ」の第四楽章「セレブレーション」は、言うまでもなく、戦時収容補償法の成立を祝うものですが、この曲はまた、ホリウチさんとしての、日系人が日系人であることを祝う曲でもあったような気がしています。

エドナさんもケンゾー君もピアノを弾かないのに、自宅のピアノのふたはいつも開けたままになっています。エドナさんは「いつだれが来ても弾けるように」と言います。そして、「生きていたらきっと『9・11』についての曲を書いたでしょうね」。戦時補償法成立から二十年。音楽を通じて人々の心に訴え続けたホリウチさんの言葉を聞くため、私はまた「ポストン・ソナタ」に戻っていきます。

*本稿は『TV Fan』 (2008年11月)からの転載です。 

© 2008 Yukikazu Nagashima

composer Glenn Horiuchi Jazz music NCRR Piano redress shakuhachi TV Fan