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二つの国の視点から

ベリナ・ハス・ヒューストン~自らをアメラジアンと呼ぶ日系2世の劇作家 -その1

以前に取り上げたフィリップ・ゴタンダと並んで、ベリナ・ハス・ヒューストンは、日系アメリカ人を代表する劇作家である。出版された作品数は、ゴタンダが8、ヒューストンが6、電子書籍を含めるとゴタンダが15で、ヒューストンが11である。この数字は、日系だけでなく、アジア系、という枠組で見ても、かなり多い。

ベリナ・ハス・ヒューストン ©Velina Avisa Hasu Houston Family Trust

2人の出自はずいぶん異なる。ゴタンダは両親とも日系人の日系3世だが、ヒューストンは父親がアフリカ・ネイティブアメリカン系、母親が日本人の戦争花嫁なので、3つの血が混ざった2世だ。戦争花嫁とは、米軍人と国際結婚し、戦後の1947年から60年代にかけて海外に移住した日本人女性のことで、アメリカに渡った戦争花嫁は5万人から10万人と言われている。

日本で上演された彼女の戯曲は、「Tea(ティー)」(1993、1995、1998、2009)と、「Calling Aphrodite(ヒロシマよ、アフロディテよ-女と影-)」(2008)である。作品が日本で上演された日系人劇作家は、彼女を除くと、フィリップ・ゴタンダ、ワカコ・ヤマウチ、リック・シオミの3人だけだ。「ティー」は、同じ劇団が4度やったのではなく、

違う劇団がそれぞれの訳で上演したもので、このようなケースは他では見当たらない。この作品への関心の高さがうかがえる。

ゴタンダと同じく、ヒューストンには、自分の家族をテーマにした作品がいくつもある。代表例が、劇作家になって間もない1980年代に書かれた3つの戯曲である。まずは「Asa ga Kimashita(朝が来ました)」で母、セツコが黒人の血を引くアメリカの軍人と結婚し、日本を出るまでの経緯を描き、「American Dreams(アメリカン・ドリーム)」では、渡米後、セツコが白人社会からだけでなく、夫の家族からも差別を受ける様子を描いた。そして、3部作最後の「Tea(ティー)」で、夫を亡くした母と、他の4人の戦争花嫁の物語を重層的に描写した。

「ティー」はアメリカでも評価が高く、1985年にサンフランシスコで初演されて以来、60回ほど公演が行われている。彼女の作品はこの30年で30作以上が上演されているが、この数はダントツに多い。文字通り、彼女の代表作である。この作品を知るにはまず、彼女の両親の話から始めなくてはならない。

ベリナの両親。1950年ごろの東京にて ©The Velina Avisa Hasu Houston Family Trust

あらゆるコミュニティから差別された母の人生

ベリナは1957年に、日本人の母、セツコ・タケチとアフリカ・ネイティブアメリカン系の父、レモ・ヒューストンとの間に生まれた。セツコは愛媛県松山出身で、商家の生まれだった。アラバマ州生まれのレモは12歳で両親を亡くし、その後ニューヨークに渡って軍人になった。セツコは外の世界を知りたいという欲求が強く、神戸でアメリカの進駐軍の通訳として働いていた母の従妹を訪れたことがきっかけでレモと知り合い、8年の交際を経て54年に結婚した。ベリナはアメリカに向かう船の中で生まれたが、父が軍務についていた日本が出生地として登録された。

一家はカンザス州のフォート・ライリー陸軍基地に隣接したジャンクション市に移住した。ここには戦後、日本人だけでなく、タイ人、韓国人、イギリス人、イタリア人、ドイツ人、フランス人など、米軍人と結婚した10万人ほどの戦争花嫁が暮らした。

セツコはアメリカに幻想をいだいていたが、現実の生活は厳しく、近隣の白人の家族からも黒人の家族からも差別を受けた。また、戦争花嫁は英語力も乏しく、日本の文化を継承する傾向が強いため、同化志向型の日系社会の中でも差別の対象となった。

『写真花嫁・戦争花嫁のたどった道』

前回、このコラムで、日系社会における差別の問題を取り上げたが、戦争花嫁もまた、例外ではなかった。『写真花嫁・戦争花嫁のたどった道』(明石書店 2009)に収録されている「民間親善大使 アメリカの日本人戦争花嫁」で、ベリナは次のように述べている。

アジア系アメリカの歴史書から戦争花嫁の一団の移住についての記述は大きく削除され、ロサンゼルスにある全米日系人博物館でさえも、戦争花嫁の移住についての記録はまったく展示していない。(安富成良訳から一部改訳)

だが、戦争花嫁たちは、アメリカで辛抱強く生き、草の根レベルで日米間の関係改善に多大な貢献をした。たとえば、セツコは近くに住んでいたドイツ人の戦争花嫁と彼女の夫に巻寿司をご馳走し、その後、お互いの国について話をするようになった。戦争花嫁たちが民間親善大使だったことを、ベリナはこのエッセイで強調している。

その2>>

*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」 のコラムシリーズ『二つの国の視点から』第7回目に加筆したものです。 

© 2009 Association Press and Tatsuya Sudo

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About this series

海外に住む日系人は約300万人、そのうち在米日系人は約100万人といわれる。19世紀後半からはじまった在米日系人はその歴史のなかで、あるときは二国間の関係に翻弄されながらも二つの文化を通して、日系という独自の視点をもつようになった。そうした日本とアメリカの狭間で生きてきた彼らから私たちはなにを学ぶことができるだろうか。彼らが持つ二つの国の視点によって見えてくる、新たな世界観を探る。

*この連載は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」 からの転載です。