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世界のなかの日本と世界

フロリダと天橋立~ヤマトコロニー先導者と丹後ちりめん - その3

>>その2

沖家と酒井家

沖氏のおかげでいくつかの謎が解けたというか、コロニーがどういう歴史的な経緯で誕生したかが浮かび上がってきたが、さらに沖氏の姉である長屋光子さんからは、沖家やコロニーについてのエピソードを聞いた。長屋さんは、祖父である光三郎氏のことを覚えていて、「体が大きくて、厳しい人だった」と振り返る。また、祖母とは田舎(峰山町)の大きな門構えの家で小さいころ一緒に暮らしていたこともあったという。

この祖母というのが酒井襄氏の姉にあたるわけで、光三郎氏がアメリカで急逝してしまい、コロニーの事業も結局失敗に終わってしまったことで、祖母は、複雑な立場と心境にあったろうと述懐していた。

また、子供のころに、ヤマトコロニーの写真を見たことがあり、いまでも記憶にあるという。

「バラックのような建物のベランダがあるようなところで、みんながハイカラな格好をして写っていました……線路で荷物を運ぶための駅舎のようなものもありましたね」。残念ながらこうした写真は、戦災ですべて焼けてしまった。

コロニーから日本に引き揚げてきた親戚にも会ったことがあり、やはり「ハイカラな格好をしていた」という。

沖氏と会ってからほぼ半月後、今度は京都で酒井隆子さんと会うことになったのだが、その直前に、彼女から酒井襄氏の孫にあたる水戸部浩氏が同じ京都にいることを教えられた。これまでわからなかった襄氏に関することがまた明らかになるかも知れなかった。そこで水戸部氏にもお願いし、親戚同士でもある二人に同席してもらい京都駅の近くのホテルで話を聞くことになった。

水戸部浩氏と酒井隆子さん

歴史を遡る家系の話をしていると、どうしてもややこしくなってくるので、その関係を整理したいと思い二人に尋ねたところ、水戸部さんは酒井家の実に細かい家系図を持ち出して説明してくれた。それは、酒井襄氏の祖父の代からつづくものだった。家系図によると、襄氏は七人兄弟姉妹の三男で、フロリダにわたってからおよそ2年半後の明治40年4月に滋賀県出身の川嶋貞さんと結婚、一男、五女をもうけるが、長男は1歳3ヵ月でヤマトコロニーで亡くなっていた。

残る五人の娘たちはコロニーで育つが、48歳で襄氏が亡くなって間もなくして、妻の貞さんは、娘たちを連れて日本に帰ってきた。フロリダから鉄路で太平洋岸に出て太平洋を船でわたってきたのだから当時としては相当に長くしんどい旅だったろう。

この娘たちのうち長女睦子さんの三男が水戸部氏だった。水戸部氏は、祖父母がコロニーでどんな生活をしてきたかについてはほとんど聞かされてはいなかった。しかし、祖母の貞さんが90歳になったときでも、自宅の屋根の雨漏りを自分で直していたのを覚えている。コロニー暮らしで身に付けただろう逞しさを感じたという。
また、"帰国子女"の母親、睦子さんはライフスタイルがアメリカナイズされていたところもあって、朝食にオートミールを食べていたりしたそうだ。そのため朝食のメニューをめぐっては夫と好みが分かれてもめたこともしばしばだったという。

コロニー移住者のなかには、神谷為益という名前があるが、これは酒井襄氏の弟で、神谷家に養子に行ったためこう名前が変わった。この神谷家の家族はコロニーが消滅したのちもアメリカ各地に残っていまにいたる。ただ、為益氏本人は晩年日本に戻って暮らしていた。隆子さんは、同志社大学で学んだ後に1960 年にアメリカに留学、ノースカロライナなどで数年を過ごした。この間、親戚筋にあたる神谷家の人たちとも交流があり、帰国した為益氏のこともよく知っていた。

神谷家と酒井家に対比されるように、コロニーを去って日本に帰ってきた人たちと、アメリカに残った人たちは、その後世代を重ねるとまったくちがった人生を歩むことになったようだ。

再び丹後半島へ

フロリダのモリカミ・ミュージアムと日本庭園は、入植してコロニーが消滅したのちも一人現地で働き続けた森上助次氏の地道な努力と成果のたまものだった。しかし、遡れば、そのきっかけをつくり先頭に立ったのは酒井襄氏らであり、その背後には移住希望者で資金難の者をバックアップしたと思われる沖光三郎氏の存在があった。

その沖氏の財力は、当時の丹後半島で隆盛を極めた丹後ちりめん産業によってもたらされた。丹後織物協同組合によれば、丹後半島一帯にあたる丹後地方の絹織物の歴史は古く、1200年前の奈良時代の織物が確認されている。現在の丹後ちりめんは、約280年前、江戸時代の享保5(1720)年、絹屋佐平治らが京都西陣より持ち帰った技術をもとにした「ちりめん」が始まりで、その後丹後地方全体に広まり、峰山藩や宮津藩がちりめん織りを保護助長したことで丹後の地場産業として根付くことになったという。

沖光三郎氏もこの歴史のなかで兄の利三郎氏とともにちりめん問屋、沖利三郎商店を営んだ。峰山町に本店を構えていたが、やがて京都市内にも店を開くようになった。いかに羽振りがよかったか。光三郎氏の孫、長屋光子さんの「(アメリカに行くとき)、銀行ができるくらいのお金をもっていったと聞きました」という言葉からもそれが想像できる。

だが、この沖家の隆盛も長くはつづかなかった。守弘氏によれば次の代になって「昭和の大恐慌のときに相場に手を出してすべて失ってしまった」という。そして夜逃げ同然で京都を後にした。京都市はもちろん、丹後にも沖家の足跡はいまほとんどなく、わずかに出身地の旧峰山町橋木という地にある縁城寺という由緒ある寺に残っているだけだという。

沖家と縁のある縁城寺(京丹後市)

ヤマトコロニーの物語は、地場の伝統産業にかかわるユニークな集団移民であり、日本の近代史の一端を知る上でも興味深い。しかし、そのわりには、関係する記録はこれまで、宮津市や京丹後市に取材した限りでは、郷土史にまったくといっていいほど刻まれていない。また、記録として残されるためには、もう少し当時の様子やコロニーそのものについても明らかにされる必要がある。

コロニーを生み出した丹後ちりめんの産業とは当時どのようなものだったのだろうか。沖光三郎氏をはじめコロニーにいた人たちの足跡は地元に残っていないのだろうか。さらに、実際のコロニーの生活がどんなものだったのか。

この物語を埋めるためには、こうした事実をさらに探りたいところである。のりかかった船というのか、これらを少しでも明らかにするため、私はふたたび丹後地方を訪れてみた。そこで新たにわかったことについては、回を改めてまたご報告したい。

*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」(2010年9月30日号)からの転載です。 

© 2010 Association Press and Ryusuke Kawai

florida jo sakai morihiro oki yamato colony

About this series

咸臨丸がアメリカに渡ってから150年、日本が近代社会へ移行してからいままで、多くの日本人が世界でその足跡を刻んできた。日本の遺産を引き継ぎながら、もうひとつの国や文化を受け入れて生きる。国家という枠組みを超えて日本とつながりをもつ人たちの世界をアメリカを中心に追い、日本人とはなにか、アイデンティティとはなにかを考える。

*この連載は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」 からの転載です。