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第3回 母を殺した国の兵として -水野ハリー義徳さん-

第二次大戦中、多くの日系人が「敵性外国人」として強制収容されたが、同時に、多くの日系人が米国の兵士として戦場に赴いた。強制収容所に親を残したまま、そこから志願して兵役に就いた日系の若者たちもいた。彼らは、その屈折した心情を晴らすかのように、戦場で数々の殊勲を上げたが、第二次大戦後、米陸軍の軍属(アーミー・シビリアン)として日本で働き、軍事情報部(MIS)部員として朝鮮戦争に従軍した水野ハリー義徳さん(83)=ユタ州ビンガム出身=の場合、屈折の度合いはさらに大きかったのではないかと思われる。小さいころから仏教徒として育てられた水野さん。米軍による空襲で母親と妹が殺されたことを知った上で、それでも「アメリカには恩がある」という親の言葉を心に、その国の兵士となって戦ったのだった。

1944年末ごろから、米軍は日本本土の空襲を激化。翌45年3月10日の東京大空襲では約10万人が死んだ。静岡県清水市が爆撃を受けたのは同年7月7日のこと。軍需工場があったために狙われた。

自宅で戦争中の体験について語る水野さん

水野さんらが日本に行ったのはその前、1938年のことだった。沼津出身の父親は日露戦争後、米国に渡り、最初は農業に従事。その後、鉄道敷設工や銅山の鉱夫として働いたが、そうした苦労がたたってか、水野さんが小学校四年生の時に死去。当時七人の子供を抱えていた清水市出身の母親は、義兄から「面倒をみるから帰ってこい」と言われ、日本に帰ったのだった。夫の遺骨を郷里に埋葬するためでもあった。

数年後、領事館から手紙が届く。日米関係が悪化しているから、米国に戻ったほうがいいとの勧告だった。水野さんと二人の姉は米国に戻った。

日本には母親と姉、妹、弟が残ったが、ようやく米国に帰る手続きを終え、浅間丸で横浜を出港まではよかった。しかし、途中で船は引き返した。日本の仏印南部進駐を受け、米国政府が国内の日本資産の凍結や石油の対日輸出禁止などをの制裁措置を発表したため、日本資産の一環として浅間丸が接収される可能性を恐れたのだった。こうして母親らは、日本から出ることができなかった。

そして、日米開戦。水野さんはユタ州の叔父のところに住んで、中学校に通っていた。ユタ州の日系人は立ち退きの対象になっていなかったが、警察に「家から10マイル以外のところには出るな」と言われたという。水野さんが高校を卒業した年に終戦となった。

その翌年、水野さんは再び日本の土を踏む。米陸軍将校らの世話をする軍属としてだった。そこで母親と妹が米軍の空襲で死んでいたことを知った。清水大空襲による死亡だった。

「従兄弟が興津の橘に住んでいて、清水がやられたというので、自転車で見にいったら、玄関のところに入歯が落ちていたという。『やられたな』と思ったら、もう骨だけになっていたという話だった」

水野さんはたまらなかった。そのショックは、怒りとなって爆発する。当時多くの人々が疎開していたのに、母親らは「してはならぬ」との通告を受けていたため、清水市にとどまった。それで空襲に遭った。だから、そんな通告を実際に与えた日本の警察に反発。「警察を見たら、喧嘩していた」。空襲を指揮した米国の司令官にも食いついた。「司令官は何も言わなかった」。戦後六十五年が経った今、「仇を撃つつもりだったのか。今から考えると、何であんな馬鹿なことをしたのかと思う」と言う水野さんだが、いかにショックが大きかったかを如実に物語るエピソードと言えそうだ。

5年後の1951年、日本から再び米国に戻り、ロサンゼルス市立大学に入学したが、1年もしないうちに、今度は徴兵され、朝鮮戦争に従軍した。

「小さい頃から親によく言われてました。あなたたちはアメリカに生まれて、アメリカの学校に行かせてもらって、アメリカの教育を受けさせてもらった。だから、アメリカには恩がある。アメリカのために尽くす義理がある。恩返しを忘れないように」

母親や妹が米軍の空襲で死亡したことを知ってから5年後の米軍入隊。その時どんな心境だったか。

ちなみに、水野さんによると、数々の殊勲を上げた442部隊の隊員はじめ、第二次大戦に従軍した日系兵士には仏教徒が多かった。特にハワイからの日系兵士がそうだった。お札を持ち、数珠を手にしていたことで分かったという。水野さんの義兄や叔父も442部隊に所属。水野さんも小さい頃から日蓮宗の信徒として育ち、今でも毎週日曜日、説教を聞きに住んでいるオレンジ郡サイプレスからロサンゼルスのお寺に娘さんと通っている。

 * 本稿は、週刊「仏教タイムス」(2010年7月22日)に掲載、加筆・修正したものです。  

© 2010 Yukikazu Nagashima

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About this series

We will introduce the wartime and postwar experiences of three Japanese Buddhists, taken from a series of articles published in the Buddhist Times (July 2010) as a special project to mark the 65th anniversary of the end of the war.

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About the Author

Born in Chiba City and graduated from Waseda University. In 1979, he moved the U.S. He worked at California Daily Newspaper and joined the Japanese editorial team at The Rafu Shimpo in 1984. In 1991, he became Editor of the Japanese department. He left the company in August, 2007. In September of the same year, he received an award by the Consulate-General of Japan in Los Angeles. He has published a series of articles titled “Profile of Nikkei Contemporary History” in TV Fan introducing the Japanese and nikkei in America. Currently he works as an editor of “J-Town Guide Little Tokyo,” a community magazine in English which introduces Little Tokyo.

Updated August 2014

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