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第2回 自問の中、仏教と出会う -長谷川良子さん-

第二次大戦時の日系人強制収容は、米国史における大きな「汚点」として、1988年に当時のレーガン大統領が謝罪、収容された人たちには一人2万ドルの補償金が支払われたが、一方で、日本舞踊や詩吟、そして各種の文芸まで、収容所の中でさまざまな日本文化が育っていったのも事実だった。収容所が大勢の人たちに、日本文化との「出会いの場」となったのだ。仏教と出合った人もいた。後に曹洞宗北米別院禅宗寺の婦人会会長を務める長谷川良子さん(86)も、そんな一人だった。

戦争が始まった年の春、長谷川さんは米国に戻った。出身はカリフォルニア州北部の街ヘイワード。6歳の時に両親に連れられて神奈川県小田原市へ。二人の弟とともに祖父母の下に預けられ、以来、日本での生活を送っていたが、戦争の足音が次第に大きくなってきたので、両親が待つサンフランシスコに戻った。

しかし、それからわずか半年後に日米戦争が勃発。それに続き、強制収容されることになるなどと一体だれが想像できたであろう。西部諸州に住んでいた日系人約12万人の強制収容である。

「本当に混乱しました。呆然として、『なんで』『なんで』って。まったくわけが分からなかったんです」。これでは、まるで強制収容されるために米国に戻ったようなものではないか。

長谷川さんらは最初、サンフランシスコ近郊のターラックという所に急設された「アセンブリーセンター」と呼ばれる集合所に送られた。内陸部に収容施設ができるまでの臨時収容施設だった。

長谷川さんはそこで、後に曹洞宗北米開教総監となる鈴木大等氏と出会う。鈴木氏は日曜学校のような集まりを毎週開いており、般若心経の教えを説いていた。運命の出会いだった。

「呆然として、何をしにアメリカに戻ってきたのか自問ばかりしていた時に聞いた般若心経の教え。心を和やかにしてくれたし、信仰の大切さを教えてくれました」

ターラックから長谷川さんらはアリゾナ州ヒラにできた収容施設に。さらに、そこからカリフォルニア州北部のツールレークの施設に送られた。長谷川さんはいわゆる「ノー・ノー組」だった。

「ターラックから鈴木先生がどこに送られたのか分かりませんでしたが、ツールレークでは意外とみんなしっかりしていて、収容所のバラックを住みやすいように工夫するなどしてました」

ツールレークは計10カ所に造られた強制収容所の中で最も多くの日系人が収容された所で、最高時で一万九千人が収容された。それだけに日本的な雰囲気は強く、さまざまな文化活動が行われ、それぞれのブロックには日本語学校もできた。

「国民学校と呼んで、第一から第八までありました。私は第一国民学校で教科書を作るのを手伝ったのですが、そこで教師を勤めていた主人に会ったんです。やはり小田原の出身で、その時はただ『同郷の人』というだけだったのですが、心に残った人でした」

ツールレークでも日曜日に仏教の説教があったが、ほとんど行かず、そして終戦。長谷川さんらはサンフランシスコに戻ったが、強制収容で財産を失ってしまっていたために、暮らしの建て直しは大変だった。戦前には果樹園を経営していたが、戦後は商売するだけの資金はなく、両親はそろって洗濯屋に勤めた。長谷川さんと弟二人は、スクールガール、スクールボーイという戦後の出発。「そうしなければ、学校にもう行けませんでした」

その後、ロサンゼルスに戻っていた夫と遠縁の親戚を通じて再会し、1949年に結婚した。禅宗寺で式を挙げたが、司式を務めたのが何とターラックの鈴木大等氏。「縁というものを感じました」

結婚を機に仏教にのめり込んでいった。戦時中の祖父母の死去も大きかった。「私を育ててくれた人が死去したのに、戦時中だったために何もできなかった。遅ればせの恩返しのようなつもりで、仏教に入っていっていきました。ご先祖さんはみんなこちらに持ってきています」

1982年に禅宗寺の檀家となり、85、86年と婦人会の会長を務めた。子どもがいないため、夫の新男さんが2002年に死去してからは一人住まいで、現在はボイルハイツにある敬老引退者ホームで暮らしている。

「主人が亡くなってから、ボランティアの活動や、坐禅、写経にと、もっとお寺が近くなりました。心の拠り所なんです。ターラックで聞いた般若心経。いまでも毎朝、読経しています」

今でも禅宗寺の代表として、公的な行事に出席することが多い長谷川さん。写真は今年のメモリアルデーで、日系先亡者慰霊塔の前での式典に参列した長谷川さん

 * 本稿は、週刊「仏教タイムス」(2010年7月8日)に掲載、加筆・修正したものです。 。 

© 2010 Yukikazu Nagashima

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About this series

We will introduce the wartime and postwar experiences of three Japanese Buddhists, taken from a series of articles published in the Buddhist Times (July 2010) as a special project to mark the 65th anniversary of the end of the war.

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About the Author

Born in Chiba City and graduated from Waseda University. In 1979, he moved the U.S. He worked at California Daily Newspaper and joined the Japanese editorial team at The Rafu Shimpo in 1984. In 1991, he became Editor of the Japanese department. He left the company in August, 2007. In September of the same year, he received an award by the Consulate-General of Japan in Los Angeles. He has published a series of articles titled “Profile of Nikkei Contemporary History” in TV Fan introducing the Japanese and nikkei in America. Currently he works as an editor of “J-Town Guide Little Tokyo,” a community magazine in English which introduces Little Tokyo.

Updated August 2014

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