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第1回 ツールレークから広島へ -安孫子洋さん-

今年は終戦から65年。戦争の記憶は年々風化の一途をたどるが、第二次大戦中に「敵性外国人」として強制収容所での生活を余儀なくされた日系アメリカ人や、まさにその強制収容所から兵役に志願した日系二世にとって、戦争の記憶はいまだに鮮明だ。その中には多くの仏教徒がいたが、そこには、仏教徒ならではの「戦争」や「戦後」があった。

* * *

西本願寺ロサンゼルス別院の現輪番、安孫子洋さん(69)=ロサンゼルス出身=が強制収容所に送られたのは、満一歳のころだった。母親と2歳半年上の兄とともに、アーカンソー州のジェローム収容所に収容された。そこからカリフォルニア州北部のツールレーク収容所に移され、そこで開戦直後にFBIによりニューメキシコ州の抑留所に連行されていた父親の義孝さんと合流。終戦の年の12月に日本に行った。

義孝さんは開戦当時、開教使としてオレンジ郡を中心に布教活動に従事していた。日米戦争勃発で、まず日系諸団体の有力者や日本語学校の教師、そして仏教の開教使らがFBIに連行されたのだった。

義孝さんは滋賀県出身。正光寺という寺の次男だった。ツールレーク収容所では第一国民学校の教師を務めた。洋さんは、父親はあまり戦時中のことを話したがらなかったというが、義孝さんが日本に帰ることを決めたのは、妻の宣子さんの父親が「日系人は戦争でひどい目に遭っているから助けに行く」と言ってきたので、無事なところを見せるため、というのが当初の目的だったようだ。

安孫子さん一家はツールレークから汽車でオレゴン州のポートランドへ。そこから軍用船ゴードンで日本に向かった。船は日本に帰る人たちでいっぱいだったという。船が日本に近付き、富士山が見えてきた時だった。横須賀に入港する船が傾いた。みんなが富士山の見える側に移動したためだったという。しかし、横須賀に着いてから安孫子さんが幼心に目にしたものは、敗戦国・日本の惨状だった。

横須賀に着いてしばらくは軍人らの宿営のようなところに滞在。そこから上野へ行き、滋賀に向かった。いくつもの汽車を乗り継いで行く旅だった。「それは凄まじいものだった。汽車の屋根にも大勢の人たちが乗っており、窓はなかった。私は網棚に乗せられたのを覚えている」。母親はツールレークで生まれた娘を抱えていたが、とにかく列車は人でぎゅうぎゅう詰めだった。

汽車が京都駅に着くと、同じ年頃の子供たちが物乞いをしている場面に出くわした。汚い身なり。薄い毛布に身を包んで「おなかが空いたよー」と泣いている。自分は強制収容所に入れられていたにしろ、それなりの服装だ。食べ物だって、一応はある。収容所の中で描いていた日本のイメージと、あまりの落差だった。「まるで地獄図のイメージ。とにかくショックだった」

滋賀でも歓迎はなかった。家族を連れて帰ってきた義孝さんに、義孝さんの母親は「なんで帰ってきたんや」と冷たかった。「迎えに行く」と言っていた宣子さんの福井の実家でも対応は同じだった。

それから1年半後、ツールレークで生まれた妹が栄養失調で死んだ。二つ半だった。戦争による犠牲者と言っていいだろう。米国にとどまっていたら、死なずに済んだかもしれないのに。悲しみは深かった。

義孝さんはこの後、広島別院へ赴任。原爆で倒壊した本堂復興が主な任務だった。洋さんは爆心地に近い本川小学校に入学したが、校舎が原爆で全壊したこともあって、毎日あちこちの片付けをさせられた。同校では集団疎開しなかった児童ら400人以上が原爆の犠牲になっており、頭蓋骨が出てくることもあった。

そうした日々の中、級友が相次いで死んでいく。毎日一緒に学校に通っていた仲良しのよっちゃんも、最初は髪の毛が抜けていって、そして死んだ。「考えてみると、小学生のころから死と隣り合わせだった」

洋さんはそうした日本での幼児体験が、その後の人生を決する重要な要素だったと振り返る。

「記憶ができ始める4、5歳のころから10歳までを過ごした日本。そこで目にしたもの、体験したことはまさに敗戦の悲惨だった。それをどう見たらいいのか、どう考えたらいいのか。生死を乗り越えるものを探すようになったのは、小さい頃のそんな日本での体験があったからだと思う」

その後、広島別院から札幌別院に移動した義孝さんが肺炎を起こしたのがきっかけとなり、義孝さんの健康回復と子供たちの教育のため1954年、一家で米国に戻る。洋さんはアラメダ高校を出てから州立大学に進み、65年に卒業。徴兵でベトナムに送られる可能性があったが、「敗戦はつくらせてはいけない」と、兵役を回避し、宗教の勉強のため日本に行って、龍谷大学で仏教学の修士号を取得した。そしてインドを回って米国に戻り、サンノゼ別院、パラアルト仏教会、サンフランシスコ仏教会を経て昨年、ロサンゼルス別院の第九代輪番に。

「縁があってこういう過去を持つことができた。それを大切にしながら、体験で得たものを分かち合って行ければと思っている」

西本本願寺の輪番に昨年就任した安孫子さん。執務室で

* 本稿は、週刊「仏教タイムス」(2010年7月15日)に掲載、加筆・修正したものです。 

© 2010 Yukikazu Nagashima

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About this series

We will introduce the wartime and postwar experiences of three Japanese Buddhists, taken from a series of articles published in the Buddhist Times (July 2010) as a special project to mark the 65th anniversary of the end of the war.

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About the Author

Born in Chiba City and graduated from Waseda University. In 1979, he moved the U.S. He worked at California Daily Newspaper and joined the Japanese editorial team at The Rafu Shimpo in 1984. In 1991, he became Editor of the Japanese department. He left the company in August, 2007. In September of the same year, he received an award by the Consulate-General of Japan in Los Angeles. He has published a series of articles titled “Profile of Nikkei Contemporary History” in TV Fan introducing the Japanese and nikkei in America. Currently he works as an editor of “J-Town Guide Little Tokyo,” a community magazine in English which introduces Little Tokyo.

Updated August 2014

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