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アメリカに移住した被爆日本人女性の記録—カリフォルニア州マリナデルレイ在住の笹森恵子さん—その4

>>その3

車椅子になっても「平和」を訴え続けたい

20代半ばでノーマン・カズンズさんに出会い、アメリカで養女として迎えられた笹森恵子(ささもりしげこ)さんは、「どこの大学を出ているんですか」と聞かれたら、「ノーマン・カズンズ大学出身です」と答えるのだそうだ。

「いろんなことを勉強させてくれました。彼はどんな人だったか?まず、とにかくやさしい人。それから笑顔が素晴らしい。頭がすごく良くて、ユーモアがあって、人をからかうことが好きでした」

カズンズさんは笑うことがいかに病気の治癒に良い影響をもたらすかについて研究し、「笑いと治癒力」という世界的ベストセラーを著した。彼自身がよく笑い、また、家族や友人と笑いを共有する朗らかな人物だったことが、恵子さんの言葉から偲ばれる。

「多くの大学から名誉博士号を授与されましたが、誰にも『ドクター』とは呼ばせず、ノーマンと呼ぶようにと言っていました。彼こそ、真の謙遜を知る人でした」
1990年、カズンズさんは75歳で亡くなった。

養父のカズンズさんと長年共に過ごした影響もあるのか、暗い被爆の過去を感じさせないほど、恵子さんの笑顔は底抜けに明るい。

「私はあるがままをそのまま受け入れる性格なのです。強情にならず、うれしかったらうれしいと表現し、くよくよ悩むこともありません」

そんなところもまた、カズンズさんに似たのかもしれないし、もともと似た性格だったからこそ魅かれ合ったのかもしれない。

もしもカズンズさんと出会わず、アメリカに来ることがなければ、どういう人生だったかと思うかと聞いてみた。

「2人いるうちの上の姉が宝塚のファンだったから、広島に宝塚歌劇団が来た時は、私も姉と一緒に見に行きました。タップダンスにも憧れて、近所の人にやって見せてもらったことがありました。だから、そういう方面に進んだかもしれませんね。でもそれもすべて、戦争が激しくなる前の話です。そうね、やっぱり赤ちゃんが好きだったから、お嫁さんに行ってお母さんになったかもしれませんね」

そう言いながら遠くを見つめる恵子さんの眼差しは、まるで少女のようだった。

ベビーナースを辞めた恵子さんは、仕事をしていた時よりもむしろ忙しく過ごしている。アメリカに来た当時から、8月6日が近づくとメディアに取材されたり、人々の前で原爆体験の話をするように頼まれたりする機会があった。1年に1回のイベントが、やがて2回、3回となり、前述のドキュメンタリー「White Light, Black Rain」に出演してからは、講演を依頼される回数が増えてヨーロッパにまで足を伸ばすようにもなった。2009年は10月までに既に10回の講演を務めた。

「それでも、私は平和活動家ではありません。原爆の経験者として体験談を話すだけ。一つの爆弾が人の大切な命を奪う、そのことを繰り返し、話しています。核兵器を地球上から撤廃するには、一人ひとりの力が必要だから、ぜひ手伝ってほしいと訴えています。自分に出来ることは何なのか、考えてほしい、そして行動してほしいとお願いしています」

ここに、NHK広島が制作した、恵子さんをはじめとする被爆女性に取材した番組を録音したCDがある。この中に、ニューメキシコ州ロスアラモスにある、原子爆弾の研究機関に恵子さんが訪れた時の様子も収録されている。

広島に投下されたリトルボーイ、長崎のファットマンもこのロスアラモスで製造され、現在もアメリカの核兵器開発の中枢を担う研究機関として機能している。

このロスアラモスの博物館を訪れた恵子さんは、広島や長崎の惨状を伝える資料がほとんど展示されていないことに大いに落胆する。さらに博物館のスタッフが「原爆を投下したことによって戦争を終結させることができた」とコメントすると、「そんなに多くの人を殺す必要があったのか。広島、さらに長崎にまで原爆を落とさなければならなかったのか。人間で実験をしたかったのではないか」と猛然と抗議するのだ。原爆の証人である恵子さんだからこそ、その言葉は重く、真に迫っている。

恵子さんは2009年6月で77歳になった。もう、あまり時間がないことに焦りも感じている。「証言できる限り、呼ばれればどこにでも飛んで行って原爆の話をします。車椅子になっても。そして次世代に核兵器廃絶の運動をつなげていかなければ」

最後に「核を廃絶することが本当に可能だと思うか」と質問すると、「もちろん。信じているからこそ訴え続けているのです。一人ひとりの個人が信じることでより大きな動きになっていく。ちりも積もれば山となる、と言うでしょう。一人ひとりの信念こそが大事なのよ」

恵子さんが50年以上前に、ニューヨークで受けたケロイドの治療費用も、アメリカの市民、一人ひとりが寄付してくれたものが「山となって」実現したのだ。

これからも、恵子さんは、世界中の人々に、彼女の体験と平和へのメッセージを伝え続けるだろう。

(終わり)

世界中で自分の体験を語り継ぐことが、恵子さんのライフワーク(2008年5月、スイスのジュネーブで)

© 2009 Keiko Fukuda

atomic bomb survivors hibakusha
About the Author

Keiko Fukuda was born in Oita, Japan. After graduating from International Christian University, she worked for a publishing company. Fukuda moved to the United States in 1992 where she became the chief editor of a Japanese community magazine. In 2003, Fukuda started working as a freelance writer. She currently writes articles for both Japanese and U.S. magazines with a focus on interviews. Fukuda is the co-author of Nihon ni umarete (“Born in Japan”) published by Hankyu Communications. Website: https://angeleno.net 

Updated July 2020

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