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二つの国の視点から

宮武東洋~収容所を記録した日系1世の写真家~

収容所にカメラを持ち込み撮影

2009年4月11日から5月22日まで、東京都写真美術館で、すずきじゅんいち監督のドキュメンタリー映画「東洋宮武が覗いた時代」が上映された。

セルフポートレイト (C)Toyo's Camera Film Partners

宮武東洋こと宮武東洋男(みやたけ・とよお)は1895年に香川県で生れ、13歳の時に父の呼び寄せで渡米した。1923年にロサンゼルスのリトル東京で東洋写真館を開設し、写真家としての道を歩みはじめた。戦前、ロサンゼルスオリンピックの報道写真を撮ったり、ダンサーの伊藤道雄を撮るなど、日米開戦前にすでに写真家として名声を確立していた。

1942年4月、日米開戦にともない、宮武は、西海岸に住む日本人、日系人、合わせて12万人と共に、全米に10ヵ所あった収容所のうちの一つ、マンザナー収容所に送られる。彼は密かにカメラを持ち込んで収容所を撮影し、終戦まで記録し続けた。戦後はリトル東京に戻って写真館を再開し、美空ひばり、笠置シズ子、棟方志功、井上靖、早川雪洲、湯川秀樹ら、アメリカを訪れた各界の著名人の肖像を撮った。それはさながら日米交流史といってもいいほどだが、宮武といえばやはり日系米人収容所を記録したことで知られる。

宮武のことを扱ったドキュメンタリーは「東洋宮武が覗いた時代」がはじめてではない。1996年にUCLA のロバート・ナカムラ監督が「The Brighter Side of Dark: Toyo Miyatake 1895-1979」という作品をつくっている。こちらが宮武東洋の人となりを描いているのに対し、すずきじゅんいちの作品は宮武の写真や、その他の映像を通して日系人の歴史を描き、さらには9.11以降のアラブ系の人々の体験を戦時中の日系人の歴史と重ね合わせて問題を提起するところまで踏み込んでいる。

映画の最初のほうで元上智大学英文科教授の渡部昇一が解説しているとおり、戦前、アメリカには日本人を含め、アジア人に対する蔑視があった。差別は感情だけでなく法律化され、その極め付きが1924年に制定された排日移民法だった。この法律で日本人は完全に移住を禁止され、日米関係は悪化の一途をたどる。やがてそれは太平洋戦争をもたらし、アメリカ国内では日本人と日系人の収容所へとつながっていく。

収容や戦争を経験した日系人も多数、この作品に登場する。とりわけ私の印象に残ったのは、映画「スター・トレック」で有名になった俳優、ジョージ・タケイと、上院議員、ダニエル・イノウエへのインタビューだった。幼少の頃収容所にいたタケイは、大きくなってから収容に反対しなかった父を激しく責め、それを今後悔しているという。また、日系兵士として欧州戦線に送られたハワイ出身のイノウエは、(ハワイでは日系人の強制収容がなかったが)もし自分の家族が本土の収容所に収容されていたら、日系兵士として戦争に参加したかどうか、それはわからないと言う。日系人収容所のドキュメンタリー作品はこれまでたくさん観てきたが、これほどフランクな意見はなかなか聞かれない。

映画としてはタイトルの「東洋宮武が覗いた時代」から逸脱している部分も多々あるが、このような証言を聞けたことは面白かったし、何といっても宮武の 500枚におよぶ写真が映画に収められたことで、この作品自体が収容所の貴重な記録になった。多くの人に見てもらいたいドキュメンタリーである。

写真が物語る日本人の勤勉さと明るさ

「写真家・宮武東洋展」会場

この上映に合わせて川崎市市民ミュージアムで「写真家・宮武東洋展」が開催されており、こちらは2009年 6月28日まで続く。1988年にオープンしたこの博物館は開館の2年前、1986年に東洋宮武の作品を350点ほど収集しており、今回はそのうち、日系人収容所関連の写真が80点展示されている。

宮武東洋の写真展がこれまで日本で何度開催されたかは不明だが、1996年の6月に、東京都写真美術館で「マンザナー日系人収容所-宮武東洋とドロシア・ラング」という展示会が催されている。

ドロシア・ラングは、1942年、WRA(戦時転住局)の仕事で日系人収容所に入り、収容所の様子を撮影した。宮武が一個人として収容所を記録したのに対し、ラングは公の立場で仕事として記録した。だからラングの写真には収容所の全体像を写したものが多いが、中には個人を撮影したものもあり、宮武の作品と区別がつきにくいものもある。

宮武は、収容所の出来事を克明に記録した。川崎市市民ミュージアムの展示会では、「マンザナー収容所の光景」「新たな共同体 逆境の中のたくましさ」「新たな共同体 自分らしさと誇り」「収容所の子供たち」「国家への忠誠 二つの祖国のはざまで」と、時系列に5つの章に分けて、宮武の作品が展示されている。

1984年、宮武の死後5年目に文藝春秋社が『宮武東洋の写真』という写真集を出している。宮武は一体何を撮りたかったのだろか。あってはならない歴史を記録しておきたかった、という本人の弁はもちろんその通りだろう。私には、収容所にいた宮武が撮りたかったのは日本人の勤勉さではないかと思えた。収容所内の土地を開墾して野菜畑をつくる男たち、看護師助手になった女性、ダンスや義太夫、日本舞踊などの趣味に興じる人々。仕事も遊びも日本人は真剣だ。その勤勉さは決して暗いものではなく、むしろ収容所の空気を明るくし、宮武の写真にもその雰囲気が投影されている。何度も写真を見ながら、そんな風に感じた。

マンザナー収容所の光景 (C)Toyo's Camera Film Partners

日系アメリカ人の歴史を語り継ぐために

『東洋おじさんのカメラ』(小学館)

また今回、映画の上映に平行して『東洋おじさんのカメラ』(小学館)が出版された。副題が「写真家・宮武東洋と戦時下の在米日系人たち」。「東洋宮武が覗いた時代」を撮ったすずきじゅんいちが、女優で妻の榊原るみと一緒に書いた絵本である。

映画の副読本のような形で出された本であるが、内容は映画とは違う。映画が宮武東洋の写真を通して日系人の歴史を描いているのに対して、絵本は荒野に捨てられ、収容所にたどりついた一匹の猫を通して、宮武の収容所の暮らしぶりに焦点を当てている。収容自体の理不尽さを家族に話したり、密かに持ち込んだカメラで収容所を記録する宮武を、猫がこっそり背後から観察して物語にしている。だから、宮武の人となりは映画よりもむしろ絵本のほうがわかりやすい。

巻末に宮武のプロフィールが書かれているが、宮武が収容所であれだけ写真を撮れたのは、彼の写真に対する愛情と、収容所の所長が写真に理解があったからだ。収容される以前に、宮武はエドワード・ウェストン、アンセル・アダムスらの写真家と交流があり、所長のメリットも彼らを知っていた。宮武の写真家としての器量と収容所での幸運が、後世に貴重な記録を残すことになったのである。

28歳で写真館を開いた宮武は1979年、84歳で亡くなるまで写真を撮り続けた。収容所にいた4年間は、彼の人生からすればほんの一時期に過ぎない。収容所以外の写真でも、先にも書いたダンサーの伊藤道郎や彼の弟子を撮ったものなど、目を奪われる作品も数多い。それでもやはり宮武は、収容所を記録した写真家として記憶されるだろう。

「東洋宮武が覗いた時代」の最後のほうで、日系人の収容所について知っていますか、と日本やアメリカの若者たちにインタビューする場面がある。アメリカ人も知らない人が多かったが、日本の若者は誰ひとり知らなかった。

この絵本が全国の街の図書館や小学校、中学校の図書館に置かれ、宮武東洋と日系アメリカ人の収容所の歴史を知るきっかけになることを願いたい。

(敬称略)

参考資料:
『排日移民法の軌跡』 吉田忠雄 経済往来社 1983

*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」 のコラムシリーズ『二つの国の視点から』第1回目からの転載です。

© 2009 Association Press and Tatsuya Sudo

concentration camp manzanar photographer toyo miyatake World War II

About this series

海外に住む日系人は約300万人、そのうち在米日系人は約100万人といわれる。19世紀後半からはじまった在米日系人はその歴史のなかで、あるときは二国間の関係に翻弄されながらも二つの文化を通して、日系という独自の視点をもつようになった。そうした日本とアメリカの狭間で生きてきた彼らから私たちはなにを学ぶことができるだろうか。彼らが持つ二つの国の視点によって見えてくる、新たな世界観を探る。

*この連載は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」 からの転載です。