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概説『ユタ日報』-その歴史と意義- その2

>>その1

畔夫から國子へ

寺澤畔夫は、事業家として様々な事業に手を伸ばしたが、同時にコミュニティの名望家としても熱心に活動していた。初期のユタ州日本人会や、山中部仏教会などの組織化に尽力するとともに、二世への日本語教育や日本軍への献金運動に関わるなど、寺澤の手腕は、日系社会のリーダーとしても相当のものであった。当時の日系社会の中には、キリスト教と仏教、定住志向と出稼ぎ、同化志向と日本志向といった様々な軸に沿っての対立関係が存在したが、その中で寺澤は、定住志向ではありながら、仏教徒として、日本人として生きることを選択し、自らの位置を定めていったのである。

1921年(大正10年)、日本に一時帰国し、飯田に帰省した寺澤は、村松國と結婚、二人は年末に日本を離れた(米国への入国は新年に入ってであった)。村松國(後に「國子」と名乗る)は、1896年(明治29年)7月8日、長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)に生まれ、飯田高等女学校から東京の共立女子職業専門学校(現在の共立女子大学の前身)被服科に学び、母校の高等女学校で裁縫の教師となっていた。畔夫と國子の間には、1926年(大正15年)に長女・和子、1932年(昭和7年)には次女・治子が生まれた。

ところで、当時、日本人移民の一世は、合衆国市民権を与えられず、州によっては土地所有が制限されるなど、定住化には多くの障壁が存在した。それでも20世紀初めには、相当数の日本人が労働者から身を起こして中小の事業を興し、米国社会に根を下ろすようになる。しかし、一方では、米国社会における排日の動きも厳しさを加え、やがて、1924年(大正13年)のいわゆる「排日」移民法によって、日本からの新規移民は事実上禁止となった。さらに、1930年代の大不況期に入ると、数多くの在米日本人が帰国の途につき、二世の間でも留学を名目に日本に航るものが増加した。多数の一世が帰国したことで、ユタ州の日系社会、とりわけ日本語新聞への依存度が高い一世層は、人口を減らし始めていた。日本語新聞の読者市場は、確実に縮小しつつあった。

こうした中で、13年にわたって『ユタ日報』と対抗していた『絡機時報』が、『ユタ日報』に買収される形で、1927年(昭和2年)10月11日号を最後に廃刊となった。『ユタ日報』は、『絡機時報』の営業権、設備、一部の従業員を引き継いで発行体制の強化を計ったのである。買収価格は、5,000ドルという「巨額」だったと伝えられるが、この買収劇が行われた頃、國子は結婚後初めての里帰りで日本に帰国していた。後に、國子は「一つだけかえすがえすも残念なことは、あたしの知らぬ間に主人がとんでもないことをしでかした・・・・あたしが日本に帰りさえしなければ、あんなことはさせなかったのに」と語っている(上坂・1985、59頁)。当時の発行部数ははっきりしていないが、合併によって、少なくとも一時的には、部数は一定の水準に支えられたはずである。しかし、1932年(昭和7年)に入ると、『ユタ日報』は発行頻度が減って週三回刊となる。ある程度信頼できる数字の残っているこの前後の数年間、発行部数は徐々に減少しつつあった。結局、合併という思い切った方策も、市場の縮小を克服することはできず、むしろ巨額の買収資金が徐々に経営を圧迫するという、皮肉な結果を生むことになったのである。

畔夫は、1939年(昭和14年)4月24日に急逝した。同日付の『ユタ日報』(6486号)の記事によれば、死因は急性肺炎で、風邪をこじらせてからわずか一日で落命している。この日の紙面には、当分の間、休刊する旨の社告も出された。さらに、5月5日付(6488号[6487号は欠号?])の紙面は、畔夫の葬儀が4月30日に塩湖仏教会で営まれ、500人以上が集まったと報じている。また、葬儀後、5月2日に自宅に戻った畔夫の遺灰の前で、『ユタ日報』の事業継続について関係者が懇談した席上、國子が「皆様が哀れと思召して御援助いただけるならば亡夫の遺志をついで新聞と死を共にする覚悟を持って居ります」と挨拶し、「涙の中に悲壮な覚悟」で『ユタ日報』の事業の継続を決意することになったことも伝えている。10日付(6489号)の紙面は、一面が「故社長略歴」と追悼句、追悼文で埋まったが、17日付(6490号)では、一面トップに「再刊に就いて」と社説があり、三面の雑報でユタ日報後援会の結成記事が載っているものの、概して落ち着いた形で通常の紙面構成がなされている。

当時、『ユタ日報』は「莫大な借財」を抱え、苦しい経営を強いられていた。「借財」の大半は、『絡機時報』買収の後、晩年の畔夫が金策に奔走し、結局は失敗に終わった油田開発事業への投機的投資に由来するものであったようだ。畔夫の死を契機に、このままでは『ユタ日報』が倒れるのではないかと心配した関係者たちは、債権者たちに様々な形で働きかけた。上坂(1985、71~73頁)は、フリーの記者だった西村閑太史(義雄)が白人出資者に掛け合って借金を帳消しにしたこと、國子が自分の和服をことごとく与えるなどして日本人出資者に詫びたこと、後援会のこと、少なからず集まったはずの香典がすべて社の運転資金となったこと、など当時の事情を伝え、「健全経営のミニ新聞として仕切り直すべく、人々の足並みは驚くほど揃った」と述べ、『ユタ日報』が「日本人社会の中でそれほど不可欠な存在になっていた」ことを指摘している。

こうして、國子の『ユタ日報』はスタートを切った。國子は、滞りがちな購読料金・広告料金を回収すべく集金旅行に奔走するなど、経営の立て直しに活躍する。当時、編集は主筆・足立光公らが、制作は光公の父・足立博愛らが支えており、後顧の憂いがなかったとはいえ、主婦の立場から一転して社主となった國子の奮闘ぶりには目を見張るものがある。しかし、新聞発行に縁の薄い生活から、事業に飛び込むことになったのは、國子ひとりではなかった。ハイスクールに在学していた長女・和子が印刷を手伝い始め、現場で技術を学ぶようになったのである。和子は、ユタ大学に進む頃には印刷を切盛りするようになり、後年は、印刷のみならず英文欄の編集、発送業務、経理など事務一切を引受け、國子とともに終刊まで『ユタ日報』を支えることになった。(ちなみに、次女・治子は長じて母校ユタ大学の教員となっている。)

さて、この年の9月1日からは、おおよそ週一回、『ユタ日報』に英文欄が登場した。それまで小説と英文四コマ漫画二本、そして広告で占められていた四面から、小説と漫画一本を二面に移し、二面の広告を減らすというやりくりをしたのである。広告は日本語のままだった。この英文欄を支えたスタッフは、マイク・マサオカ(正岡優[マサル、「勝」と記される場合もある])ら市民権をもつ若い日系人二世たちであり、その多くはユタ大学の学生であった。マサオカは、1915年(大正4年)にフレスノで生まれた二世で、1937年(昭和12年)にユタ大学を卒業後、1938年~1940年にはソルトレーク市の日系アメリカ市民連盟(JACL・Japanese-American Citizens' League)支部長を務めるなど、日系社会の若きリーダーであった。当時の彼は、『ユタ日報』に健筆をふるい、山中部最初の日系人公証人として活動し、生活のために保険の外交も営むという精力的な日々を送っていた。その後は、(全米の)JACLの本部がソルトレーク市に移った時期の前後には書記長を務め、さらに日系人志願兵の第一号となっている。

英文欄の設定によって、『ユタ日報』は二世を読者層に組み込めるようになった。しかし、邦字活字しか所有していなかった当時の『ユタ日報』にとって、外注によるコスト増が避けられない英文欄の制作は、大きな負担でもあった。このため、1940年(昭和15年)初めから翌1941年(昭和16年)9月まで、英文欄は休止され、四面には漫画二本と英文の広告が掲載されるようになった。しかし、二世からの英文欄復活の要請は強く、9月12日付(6816号)は、雑報として「本紙の英文欄復活」を伝えている。この記事は、「当時の英文欄記者正岡勝君」の復活運動によって、JACL会員から(年に)一律1ドルを集めるか、『ユタ日報』の年間購読料を1ドル値上げして7ドルとし、増収分で英文欄の経費を捻出することが検討されたが、結局は値上げに踏み切らざるを得ないこと、マサオカが「全米市民協会書記長に任命された」ため、後任に石尾直(スナオ)を置いて次週より英文欄を復活させると述べている。こうして、9月17日付(6818号)から英文欄が復活したが、今度は石尾が徴兵され、再度の中断の後、11月7日付(6840号)からはモーリー・ウシオ(牛尾マリエ)が担当者となり英文欄を支えることになった。この間、10月6日付(6826号)からは年間購読料の表示が7ドルとなったが、この購読料7ドルは、『ユタ日報』の終刊まで変わることがなかった。

英文欄は、編集者も、読者も、二世が中心であった。二世たちは合衆国市民であり、畔夫や國子ら一世とは、異なる考え方をもっていた。両者の食い違いは、日米開戦が近づくにつれて『ユタ日報』の紙面にもはっきりと反映された。同じ新聞でありながら、日本語の紙面と英文欄では、欧州戦線や中国戦線の報道などをはじめ、しばしば対照的な論調が見受けられるようになっていったのである。

畔夫の時代から國子の時代へ、『ユタ日報』は大きな転換を迎えた。しかし、本当の激変は、その先に待ちかまえていた。

その3>>

* 本稿は、「ユタ日報」復刻松本市民委員会,編『「ユタ日報」復刻版 第1巻』 (1994年),pp431~435.に出典されたもので、執筆者のウェブサイトにも掲載されています。

© 1994 Harumichi Yamada

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