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日本語で書こうとした理由 -グレース・フジタさん-

ボイルハイツにある敬老引退者ホームでこの春、ちょっと珍しいクラスが開かれました。同ホームでは、引退した日系人らが余生を有意義に楽しく過ごせるよう、各種の習い事から体操までさまざまなクラスを設けているのですが、この春開かれたのは日英両語による文章教室で、指導したのは、羅府新報の元英語部編集長、現在は作家として活躍している平原直美さんです。

クラスは週一回で全6週間。ホームの居住者ら十数人が受講しました。大半は米国生まれの日系二世で、日本生まれの日本人は3人ほど。二世はほぼ全員が英語で、日本からの人は全員が日本語で文章の書き方を習ったのですが、一人、帰米二世で日本語の文章の書き方を習っていた人がいました。「南加文芸」の編集責任者だった藤田晃さんの妻、グレース・フジタさんです。日本で高校を出ているからそれなりに日本語はできるし、「南加文芸」の編集責任者の妻でもあるのですから、日本語でものを書くのは当然と思われるかもしれませんが、グレースさんが書いた文章を見て、私は、少なくとも書くということに関しては、この人は英語の人であると思いました。それなのになぜ今、敢えて日本語で文章を書くことを習っているのか。私にはどうも、そこに何らかの深いわけがあるような気がしてなりませんでした。

1918年、ロサンゼルス市生まれ。両親は山口県大島郡久賀町の出身です。小東京のメリノール学校を卒業し、12歳の時に母親と弟と三人で山口に。高校卒業後、大阪に出て、貿易関係の会社に勤めました。ある日、二世の友達と大阪駅の前で英語で話していたら、兵隊から「こら。家出娘か」と怒鳴られたこともあり、早く米国に戻ってきたくてしょうがなかったと言います。しかし、戦争のため帰れず、帰米したのは結局戦後。しばらく友人の父親のところで働いてから、日本航空が支店をロサンゼルスに開くということで、1954年に採用されました。それから31年間、同支店で主に米国人旅行者相手の接客業務を担当。使った言語はもっぱら英語でした。日本語でもの書くことはほとんどなかったと言います。だから、日本航空での仕事が日本語で書くことにつながったわけではないことは確かです。

晃さんとの出会いは、当時あった帰米の人たち向けのクラブのようなものでした。そこで、もっと米国での生活に馴染むようにとダンス・パーティーを催したのですが、あるパーティーで会った人が「自分の足を踏んだりして、まあ、なんて不器用なんだろうと思った」。それが晃さんでした。付き合が始まり、二人は結婚しました。

「南加文芸」は1965年の発刊です。戦時中、強制収容所内での文芸活動に携わっていた人たちが戦後「十人会」というグループを組織、そこから「南加文芸」が生まれました。それから25年間、ガリ版刷りの雑誌を発行し続けたのですが、その編集責任者だった藤田さんは「小説では『権威』で、みんなから敬われていて、藤田さんの批評なら『なるほど』と思ったものです」(「南加文芸」の編集スタッフだった山中眞知子さん)。編集会議はモントレーパークの藤田さんの自宅で開いていましたが、「結婚するまでは夫が文学をする人とは知らなかったし、私にはあまり書く機会はなかったので、会議の時はもっぱらお三どんでしたよ」と言うグレースさん。その時から、日本語で書くことへの関心が心のどこかでくすぶっていたのでしょうか。

藤田さんの作品は全部読みました。「一通り読んだ方がいいだろうと思って」。感想を聞くと、「別にね。あまり感動も何もないし。こういうものを書いているのか、と思ったぐらいですよ」。ものごとにこだわらない性格からの言葉でしょうが、ともかく、藤田さんの小説が日本語で文章を書こうという原動力になっているとは考え難いようです。

本を読むことは好きで、ロザムンド・ビルチャー、メイブ・ビンチーなど、好きな作家の作品は何度も読み返します。今でも毎晩、本を読みます。やはり英語の本です。英語の人ですから当然でしょう。ならば一層、日本語で書こうとする理由が分からなくなりました。

少なくとも、グレースさん自身「何で日本語にしたのかね」と、クラスでの選択が深く考えた上でのものではなかったことを示唆します。一方で、「負けず嫌い」というグレースさんのことです。二世の他の受講生らが英語で文章を書いているのに対して、帰米二世として、他の二世とは違う人生を歩んできたという自負のようなものがあって、それで敢えて日本語を選んだのかもしれないという気もしたのですが、その確信が得られません。

そんなことを思っていたら、グレースさんの口から予想していなかった言葉が漏れました。「最近の日本語には歯がゆくなる。変に省略したり、わけの分からない外来語を使ったり。きれいな日本語、純粋な日本語をどうして今の人たちは使わないんだろうね」

日本で過ごした15年間、そして小説家の妻としての長年の生活の中で培われた日本語に対する感性というものが、グレースさんの中にある。少なくともその感触をその時、得たような気がしました。

結局、グレースさんがなぜ日本語の文章の書き方を習おうとしたのか、その疑問に対するはっきりとした解答は得られませんでした。それでも私は、グレースさんの日本語に対するある種のこだわりは、恐らくこれからも続くだろうと思っています。3年前からとっているというペン習字のクラスのテキストを見せながら、クラスについてうれしそうに話すグレースさんの顔が印象に残っています。

*本稿は『TV Fan』 (2009年9月)からの転載です。

© 2009 Yukikazu Nagashima

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