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三井波夫氏講演 「コルメナの移住について」 (前編)

パラグアイで初めて、ラ・コルメナに日本人移住地ができたのは、ご存知かもしれませんが、当時日本からの移住者を一番多く受け入れていたブラジル で、「日本人は働きすぎて、山の木を全部切って綿を植えて、儲けたら日本に帰ってしまう、それじゃブラジルは砂漠になってしまうので問題だ」と言われてい ました。そこで、日本人移住だけ制限するわけにもいかないので、ヨーロッパからの移住者も含めて、1934年頃、外国移民制限法というのを国会で決定しま した。それは、日本人ならそれまでの移住者100人に対し2人まで、新規移住を認めるというものでした。

当時、日本は昭和10年頃で農村も非常に貧しく、私の生まれた長野県も、テレビドラマ「おしん」の状態で、海外移住希望者が大勢いました。その為、 日本の拓務省がウルグアイ、アルゼンチン、ボリビア、ペルー等に新移住地を探しましたが、パラグアイだけが「受け入れましょう」ということになりました。 何故かというと、パラグアイは三国戦争と、ボリビアとのチャコ戦争で若い男が皆亡くなって、残ったのはほとんど女性と年寄りだったから。それでは農産物を たくさん作って輸出する以外に、発展させることはできない、また日本人はとても働き者だし、真面目だからと、「まず試験的に100家族だけ受け入れましょ う」と、それがコルメナ移住の始まりです。

日本は現在外務省がおこなっていますが、昔は拓務省が移住業務をしていました。その関係者が来て移住地の選定と造成測量を始めたのが1936年5 月。5月15日に、ラ・コルメナの測量基点の杭を打ったので、今でも5月15日が入植記念日です。また、町の創立記念日となっています。日本人は入植祭と 言いますが、現地人にとっては町の創立記念日です。一方、日本ではどんどん移住者を募集し、測量とか道路作りが終わらないうちにブラジルから指導移民が先 に入植し、続いて日本からも移住者が来て開拓を始めました。

日本パラグアイ間の移住協定の内容は、まず「アスンシオンから100km以上離れた場所を移住地に選ぶこと」、そこでラ・コルメナが選定されまし た。あと「農耕者に限る、それ以外の者は入植させない」。他に「開拓して作る農産物は輸出できる物のみ」。例えば国内消費する野菜を作れば、既存の農家が 打撃を受けるので駄目だと、ドルを稼げる物以外は作っちゃいかんと。それらが主な内容でした。

さて日本からの移住者が来て開拓が始まったわけですが、環境に全く慣れてないし言葉もわからない。それに道も無ければ、電気も通信も無い。無い無い 尽くしで日本から来た人達は落胆しました。加えて最初に入植したブラジルからの10家族の指導農民は日本からの移住者を指導する立場でしたが、これが逆に 「こんなとことんでもない、人間の生きてくところじゃない」とブラジルに逃げようと宣伝し、逃げようとした(笑)。私も1938年に家族と一緒にラ・コル メナへ来たんですが、私達が収容所に着いた晩にブラジルからの指導員と他の5~6人の人達が来て、とにかく荷物の紐も解かないでそのままブラジルへ逃げよ うと誘うのですね(一同笑)。

私も当時16歳で、それなりの将来への野心も希望も持っていましたが、こんなとこへ来たら一生ウダツが上がらんなと、悲観しながら真剣にそれを見ていました。結局それはそれで収まったが、1938年にはブラジル移民の一部と日本からの人達、9家族が脱耕転住しましたね。

その後の大きな出来事としては、入植後確か5年目か6年目、植民者大会と言って、移住者の決起大会が行われました。当時、日本が行っていた南洋諸島 開発に移るか、さもなくば日本に帰国する、その二つの要求をかかげての大会でした。当時パラグアイには日本政府機関も公使館も無かったので、アルゼンチン の公使館から、小関領事が出張してきて、確か5月の寒ーい日、決起大会が小学校で開かれました。家長以外は中に入れなかったが、私も興味があったから、若 い仲間と窓の外から一緒に見ていました。

重苦しい雰囲気の中で、移住地で、特に弁の立つ、押しの強い元気な3人が選ばれ、1人は家庭の事、1人は資金の事、1人は将来に対する不安、このま まじゃとても家族を養っていけないと演説させました。もう博打でしたねえ…ムシロ旗を掲げ、これだけは絶対やり通すと。「南洋諸島に転出か日本帰国だと、 それ以外の何物でもない」と、熱弁を振るっていましたね。

3人が演説を振るうと、ヤジが飛んで、やぁやぁとね(笑)。結構元気がありましたね。生活できるか、駄目になるかの分かれ目ですから、荒っぽくても 無理はない。その間、小関領事さんはずーっと聞いていたのですが、移住者の要求・発表が終わってから、椅子から立ち上がり、しばらく上を向いてから、ふい にこう顔を下げて、「諸君の困窮している状態、また非常に悪い状態、それで苦心されていることはよくわかりました。だが皆さん、私は、天皇陛下のご名代と して申し上げます。祖国日本では、これまで無かった大国との戦争、プラス支那との戦争で、国家総動員法まで出来ました。日本では米も配給制になり、国始 まって以来の大きな戦争で、国家総動員で国を守り、若者は戦場の勇士となってお国の為に頑張ってもらっています。諸君は戦場じゃないが平和の戦士として、 国際的に日本民族が発展する国策に沿って平和な開拓戦士としてここに来ています。天皇陛下の御心に従い、耐え難きを耐え、忍びがたきを忍び、頑張って下さ い」と、じゅんじゅんと説いたわけです。

さあ~当時、ここに来てた人達は皆、明治生まれか大正生まれですから、昔の日本の教育は天皇陛下と言えば、二も三も何も言えないですね(笑)、もう 土下座というような(笑)。一歩も引かないという植民者大会が、誰もうんともすんとも言わなくなって、天皇陛下の一言で終わったんですね。鶴の一声という 言葉があるが、全くその言葉通り。

こうして植民者大会は終わりましたが、そのまま放置してもおけない、出直しを計らねばと、厚生委員会というのができ、翌日各地区から代表者が集まり 「我々が立直る為に、何を作っていけばいいか」と話し合いました。当時、世界的に需要が広がり有望だったのがツングというアブラ桐ですが、これは戦後移住 のチャベスとラパスでも失敗しましたが、これを植えて皆で立直りを計ろうということになりました。ところが、結局収穫が始まったころには、支那大陸からす ごい量が出て国際価格が暴落し、その策は失敗に終わった。けれど、そういう時代に生きる望みを託し、2、3年間収まったという意味では効果がありました ね。

後編>>

[*この講演は、2008年11月7日、ラ・コルメナ日本語学校で開催された、全国日本語教師研修会に際し行われたものを書き起こしたものです。]

* 本稿は、パラグアイ日本人会連合会(ディスカバー・ニッケイの協賛団体)が協賛団体の活動のひとつとして、当サイトへ寄稿したものです。

© 2009 Namio Mitsui