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第8回 子どもと教員の生活世界(2)

サンパウロ市在住のYT氏(1933年生まれ)は、日系二世の建築家で、筆者の大切な友人の一人だ。外国語教育が禁止された時期に幼少期を送った人だが、日伯両語のバイリンガルで、氏とお話する時はいつも日本語である。そんな氏とある日、戦中期の教育の話をしていて、ふと「Yさんは教育勅語なんて習ったんですか?」と聞いてみたところ、「全部言ってみましょうか」と言って、「チンオモウフニ、ワガコウソコウソウ、クニヲハジムルコトコウエンニ、トクヲタツルコト、シンコウナリ…」とやりはじめた。今でも教育勅語を全部そらで言えるという。

筆者にとっては、二重の驚きである。一つは、氏が教育を受けた時期は日本とブラジルが国交断絶状態にあり、外国語教育が禁止されていたはずであること。もう一つは、ブラジルで生まれ育った「外国人」であるはずの氏が、父母の国の言葉とはいえ、60年もの後にまで教育勅語を暗証していることである。反動的とか、イデオロギッシュだとか、そういう陳腐な印象を越えて、不思議な感動を覚えたものた。

そんなYT氏の思い出に残る先生とは、サンパウロ郊外のモジ・ダス・クルーゼスで教えを受けたAS先生だという。

「AS先生は子どもたちに慕われていてね。奥さんもいい人だった。リベラルな考えを持った人で、自分の考えを押し付けることはなかったよ」と当時を回想する。これは「昔の人びとは皆よかった」式の回想ではなく、時おり辛辣な人物批評をする氏が、折り紙をつけた例だ。

そのAS先生とは、第1回外務省ブラジル派遣教員留学生の唯一の生き残りで、1932年以来約40年にわたる教員生活をブラジルで送った人である。今回は、AS先生からの聞き書きを中心に、戦前の日本人青年がどのようにブラジルに渡り、教師となって人生を送ったのかということを書こうと思う。

AS先生は、1906年12月20日、長野県小諸市生まれ。野沢中学卒業後、長野師範学校の専攻科に入学した。同校在学中、信濃海外協会による第1回ブラジル派遣教員留学生に応募し合格した。この時、日本力行会の永田しげし稠氏が試験官として来たという。他に二名の合格者がいた。ブラジル行きの動機として「もうちょっと楽な生活がしたい」というのが本音だったそうだ。

第一次大戦後の不況や1923年の関東大震災、1927年3月に発生した昭和金融恐慌などの影響で、就職はいっそうきびしいものとなっており、「楽な生活がしたい」という一言は、ただのユーモアや照れ隠しととることはできない。当時の日本国内の経済状況と照らし合わせてはじめて理解ができる。1929年の大恐慌を経て、世界的な経済状況はきびしさを増し、ブラジル移民も国策化していく。

1928年3月にサントス入港。渡航費は信濃海外協会が負担した。「ブラジルの情報なんかなーんにもなくてね。ブラジルに来てはじめて、こっちの師範学校が2月に始まるということを知った。すぐに入学できないということがわかったけど、学校に入らないと領事館も金をくれない。生活費がないので、永田さんが領事館と交渉してくれた。結局、木村正夫弁護士の紹介で、サンタ・アマーロの学校に入ってポルトガル語を習い、家庭教師についてフランス語を習った。こっちに来てはじめて、師範学校受験にフランス語が必要だというのを知った。そんな情報なんか、なーんにもわからんかった」ここでいう木村正夫というのは、ブラジル日系最初の弁護士で、本連載第4回で書いた聖州義塾の出身者である。1934年には、バストス第一小学校の校長に就任している(中村, 2007, p.73)。

1929年に入って、師範学校を受験。入試科目は、ブラジル地理・歴史、そして大の苦手のフランス語だった。「あんないい加減で、よく合格できたと思うよ」と氏は回想する。ともかく、同年2月に、AS先生はサンパウロ州内陸のアララクワラ師範学校にs入学した。

「師範に入学しても、フランス語がやっぱりわからなかった。私は名前がAだから、出席簿の順番が一番で、いつも最初に当てられる。フランス語の授業で、先生が本を読んでみろと言うんだが、さっぱり読めない。君はどうやってこの学校に入ったんだ?って、目を白黒させて驚いていた」

当時のブラジル、特にサンパウロはフランス文化の影響が強く、知識人はフランス語を解した。ブラジルの師範学校もエスコーラ・ノルマル(Escola Normal)と呼ばれ、フランスの師範学校(エコールノルマル)をモデルとし、その強い影響を受けていた。このようなフランス文化憧憬の傾向は、筆者が1998年に入学したサンパウロ大学大学院でも、まだわずかだが残っていた。フランス社会史学の影響が強かった歴史・地理学専攻の授業で、フランス語が一語も読めない筆者は(今でも読めない)、ずいぶん肩身の狭い思いをしたものである。

フランス語はぜんぜんダメだったが、他教科はおおむね日本の師範学校よりレベルが低かったという。「代数なんか、先生より自分の方ができたので、授業が終わった後、皆(=他の学生たち)が自分に質問に来た。音楽でも、ピアノが弾けたし音符がよめたので、いつも100点だった。体操も上手だって褒められたよ。自分は皆より年上だし、フランス語以外はよくできたんで、「小さい先生」と呼ばれてたよ」 

二木(1937)によると、当時のブラジル師範学校科目は、一年目は、教育学・心理学・教授法・社会学・児童衛生・音楽・合唱・図書・手工、二年目になるとそれらに教育史が加わり、自由科目として宗教(カトリック)が週1時間入るという(p.26)。AS先生が苦労したフランス語のことは別段触れられておらず、体操に関する記述もない。1932年の護憲革命からヴァルガス大統領の新国家体制への移行期で、教育制度も大きく動揺した時期であり、これらの教科にも異動があったものと思われる。

写真8-1:カンピーナス師範学校卒業時のAS先生(AS先生提供)

この二木氏は、AS先生と同じく長野県出身で、県下の中学を卒業し、日本力行会会員としてブラジルに移住。ソロカバ師範学校を卒業後、大正小学校の教員になった人物である。同じ文章の中で、ソロカバ師範学校の「レナツト先生の持論」として、当時すでに教員の待遇が劣悪なことに触れている。同先生の言として、「師範には女生徒が多く、男生徒に至つては実に寥々たるものだ、だから学校を出て二三年にして教職を退いたり、奥地行嫌つたりする女教員の多い上に、男教員にしても薄給に甘んじて何時までも教員をしてゐる者もなく、機会をねらつて他の職に転じてしまふのが普通一般の行き方で、教員なんて長くする者は変り者位に考へられてゐる」(p.28)と言わせている。なんとなく、筆者も含めた現在のブラジル教員の嘆きを先取りしているようで、たいへん興味深い。

AS先生は、フランス語には相変わらず苦労しつつも、充実した学生生活を送っていたらしい。1932年に州立カンピーナス師範学校に転校し、同年12月には卒業(写真8-1)。「有資格者」としてただちに、第一アリアンサの小学校に向かった。アリアンサ移住地は、信濃海外協会によって開発された日系移住地である。同協会の教員留学生としての縁で、先生はまずアリアンサの小学校に奉職したのであった。その後、当地で富山県出身の女性と結婚。長男が生まれた。

1935年9月には、サンパウロ郊外のコチア小学校に校長として赴任した。同時期に同校の教師だった石原辰夫氏の『コチア小学校の五十年-ブラジル日系児童教育の実際-』(1978)は、戦前から戦後にいたるブラジル日系教育の実態を知るための好資料だが、同年9月18日に「新任」としてAS先生の名が見える(p.39)。ちなみにこの石原氏の夫人は、本連載第4回で紹介した聖州義塾の小林美登利牧師の令妹、富美さんである。

戦前のブラジル日本語教育は、よく「臣民教育」だとか「忠君愛国的教育」だったと言われる。「臣民教育」にはもともと、修身・御真影・教育勅語が必須だったが、ブラジルでは、学校によってその影響はさまざまであった。AS先生の経験によると、「アリアンサには御真影も教育勅語もなかった。コチア小学校には誰が持ってきたのか知らんけど、立派な教育勅語があって、式典ではこの勅語を奉読した」という。インテリ移民が多く、リベラルな雰囲気を持っていたアリアンサだが、氏が教鞭を取った頃の第一小学校では修身科は週2時間行われており、「ブラジル語のわからない生徒が多かった」と当時を回想する(写真8-2)。

写真 8-2:ある県人会に寄贈された教育勅語の写し(2009年7月筆者撮影)

1930年代後半になると、サンパウロ近郊のモジ・ダス・クルーゼスに移る。すでに日本語学校は閉鎖されていたが、日系人は各地に「奨学舎」と呼ばれる寄宿舎を建て、ひそかに子弟に日本語を習わせながら、ブラジルの学校に通わせていた。先のYT氏は、このモジの奨学舎時代にAS先生にかわいがられたそうだ(写真8-3)。

「戦争で日本語で教育することが難しくなり、何度も辞めようと思ったが…」と先生は言うが、その度に父兄や町の有力者に説得され、思いとどまった。暗い戦争時代、夫人とともに鶏を飼い、子どもたちを教え続けた。戦後には、イビウナの奨学舎に校長として勤務し、教師歴は40年の永きにわたった。

2009年現在、AS先生はサンパウロ市ヴィラ・ソニアの閑静な住宅街にある自邸で、百三歳にして悠々自適の日々を送っている。長い教師生活のためか、記憶も言葉も明瞭である。戦前から戦後にわたる幾星霜を振り返りながら、「ブラジルには楽をしたくて来たんだがね…」と、ひょうきんに繰り返すところが印象的であった。

写真 8-3:モジ・ダス・クルーゼス奨学舎時代の寄宿生たちと(最前列の椅子にかけている男性がAS先生、AS先生提供)

参考文献
石原辰夫(1978)『コチア小学校の五十年-ブラジル日系児童教育の実際-』
中村茂生(2007)「ブラジル日本人移民の学校教育をめぐって-サンパウロ州バストスの「尋常小学校」(1929年から1933年まで)-」『史苑』67-2立教大学史学会
二木秀人(1937)「伯國師範の学生生活」『黎明』第1巻1号ブラジル日本人教育普及会
ブラジル日本移民70年史編纂委員会(1980)『ブラジル日本移民70年史』ブラジル日本文化協会

* 本稿の無断転載・複製を禁じます。引用の際はお知らせください。editor@discovernikkei.org

© 2009 Sachio Negawa

Brazil education
About this series

The second installment of the Discover Nikkei column by Yukio Negawa of the University of Brasilia. As an example of the overseas expansion of "Japanese culture," particularly in Latin America, this report examines the trends and realities of Japanese education in Brazil, home to the world's largest Nikkei community, from the prewar and wartime periods to the present day.

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About the Author

Sachio Negawa is an assistant professor in the departments of Translations and Foreign Languages at the University of Brasília. An expert on Immigration History and Cultural Comparative Studies, he has lived in Brazil since 1996. He has fully dedicated himself to the study of learning institutions in Japanese and other Asian communities.

Last Updated March 2007

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