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https://www.discovernikkei.org/en/journal/2008/8/21/rocky-aoki/

アメリカで日本食レストランを身近にした男 -ロッキー青木-

アメリカ人に知っている日本食レストランを挙げてもらうなら、「ベニハナ」と言う人も多いだろう。鉄板焼きレストラン「ベニハナ」は、都市部に住むアメリカ人の多くになじみのあるレストランだ。

このレストランの創業者は、言わずと知れたロッキー青木氏。慶應義塾大学在学中にレスリングの日本代表とし てアメリカ遠征後、NYで屋台のアイスクリーム販売で成功したのをきっかけに、東京・日本橋で洋食店「紅花」を開いていた両親を説得、1964年にマン ハッタンで始めたのが、鉄板焼きレストラン「ベニハナ・オブ・トーキョー」である。オリエンタル調のミステリアスな店内インテリア、大きな鉄板を囲んだ客 が、ナイフとコテを器用に操るシェフに目の前でサービスしてもらうというスタイルは、パフォーマンス好きのアメリカ人にエンターテイメント型ダイニングと して受けた。「ベニハナ」は、現在90店舗以上(フランチャイズ含む)、南カリフォルニアだけでも10店舗あるという(※1)。

これだけスシがブームで、舌の肥えた客の多いアメリカにおいて、今や「ベニハナ」が本格的な日本料理と思うアメリカ人は、少なくとも西海岸や東海岸にはほとんどいないかもしれない。しかし、40年以上前のアメリカ、特に西海岸より日本人の少ない東海岸のNYマンハッタンである。もくもくと日本人の寿司職人が“ローフィッシュ”のスシを握るスシレストランよりも、派手なパフォーマンスの鉄板焼きレストランは、ずっとアメリカ人に受け入れられやすかったろう(ちなみに、LAのリトル東京でカリフォルニアロールが誕生したのは、ベニハナのオープンの少し前である)。ベニハナに行ったなら、日本人は、「こんなの日本料理じゃないとあきれる」かもしれない。しかし、オリエンタルの料理といえば、こってしたチャイニーズ・フードしか知らなかったアメリカ人に、たとえ“日本もどき”であっても、日本食を経験させた青木氏の貢献は大きい。

今でもベニハナでは、鉄板シェフ(日本人はほとんどいない)が目にも止まらぬ早さで肉や野菜を切り、隣のシェフとコショーを投げ合ったり、食材で火山やハートを形作っている。そのパフォーマンスこそが、パワーボート世界大会への挑戦、熱気球で太平洋横断など「目立つためならなんでもやった」という青木氏のショーマンシップの表れなのだ。(※2)。その“目立ちたがり”精神は、セレブリティとなった子どもたち、息子のスティーブ(カリスマDJ/音楽プロデューサー)、愛娘デボン(モデル/女優)にも引き継がれている。

晩年はインサイダー取引で起訴されたほか、遺産問題で実子(スティーブ、デボンらを除く4人を対象)を訴えたこともあった。一見、複雑な青木ファミ リーだが、数年前、LAのコンベンションセンターで行われたジャパンエキスポで、青木氏が日系人として特別功労賞を受賞したとき、私も会場でファミリーの側で何時間か過ごす機会があった。若くて美しい3番目の妻、恵子さんと結婚して間もない頃、父を称えるため会場を訪れていた子どもたちは、恵子さんとも普通に会話を交わしていたことを思い出す。いや、普通どころか、もっと遠慮ない言葉のやり取りだったと思う。彼らは、偉大な父ロッキー青木を中心に、立派に “家族”として団結していた。

冒険好きの青木氏は、一般人の基準からしてみれば、何人分の人生を生きたのだろう。意外に思うかもしれないが、青木氏がアメリカ人としての市民権を 得たのは、近年のことだという。最後に日本人の妻を選んだ青木氏、心は日本人のまま、アメリカ人になることを決めたのである。日系アメリカ人・ロッキー青 木氏は、2008年7月10日、ニューヨークの病院で、がんによる併発症により亡くなった。69歳だった。

注釈
※1. ロサンゼルス・タイムス2008年7月12日付参照
※2. ニューヨーク・マガジン2006年10月29日号参照

© 2008 Yumiko Hashimoto

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About the Author

Born in Kobe city of the Hyogo prefecture, she has lived in Los Angeles since 1997. Works as an editor for a Nikkei Community paper, and also writes articles based on local happenings. When she was in Japan, she had never even heard of the word “Nikkei-jin,” let alone the existence of internment camps during World War II. She is participating in the Discover Nikkei site in hopes that the readers can “keep the existence of Nikkei people close to their hearts and minds.”

Updated October 2008

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