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2008年とブラジル日系移民の過去、現在、未来

「私たち一人ひとりの中の日本 (O Japão em Cada Um de Nós)」

今年六月、ポルトガル語でそう書かれた広告がサンパウロ市内中心地の地下鉄の駅で多く張り出されたのを見かけた。これは市内で開催された日系移民を テーマとしたある展示会のタイトルである。しかし、「私たち一人ひとりの中のブラジル」とは一体、何のことだろうか。ポスターを通り過ぎたあと、しばらく 考えさせられた。

これを主催したブラジルの大手銀行は、もちろん日本からブラジルへ年間数十億ドルの送金を行う「デカセギ」と、その潜在的なメンバーであるブラジル の日系人たちへの売り込みを意図しているのであるが、この「私たち一人ひとり」という主語には、単に移民やその子孫だけでなく、ブラジル人なら誰もが日本 や日本移民の影響を受けている、という意味が込められていることを理解した。

そういえば、今年二月のカルナヴァルでこんな歌詞が歌われていたのを思い出す。

「偉大な旅、信念を荷物に詰めて/希望の航海/船は海を越え」
「東洋の心はやってきた/デジタルの時代に私を助けに/日本、日の出ずる国は私たち一人ひとりの中で輝く/浅草で、さあ私の声は爆発する」
「私たちの日々の生活の中に生きている、想像力に翼を与えよう/移民があったから/私たちは一つの民族の子どもとなる/力を合わせた仕事にアリガトウ」1

リオ・デ・ジャネイロとサンパウロのエスコーラ(サンバ・クラブ)は、巨大かつ強烈なアレゴリア(山車と仮装)で、大合唱しながら日本移民を宣揚し 続けた。その後、移民の日の6月18日にかけてテレビや大手新聞、雑誌にも日系移民を題材とした番組、広告が多く現れ、皇太子殿下の来伯や大がかりな記念 祭の模様が連日取りあげられた。誰の目にも明らかなようにサンパウロ市では日系移民や日本を巡る様々なシンボルが溢れた。

ブラジル日系移民百周年(centenário)の記念の年であった2008年は、日系人組織の指導者たちが思い描いていたよりも、より深くブラジルの人々の記憶に刻印されていたかもしれない。

しかし、日本移民のお祭りは、今年がはじめてというわけではない。

もともと、ブラジルの日系移民社会にとって、10年ごとに行われる記念祭は、日本移民とその子孫を単なる「個人」としてでなく、まとまりのある「コ ミュニティ」として想像するという非常に大きな役割が担わされてきた。また、記念祭において「コミュニティ」の共同的記憶が呼び覚まされると同時に、ブラ ジルへの自己の位置づけが再確認される。しかも、それは単に移民コミュニティの側から行われるだけでなく、ブラジルの連邦政府やサンパウロ州を初めとする 自治体、ビジネス、メディアも大きな関心を示して参加する。世界最大の日系コミュニティが繰り広げる記念祭は、日本とブラジルを巡る様々なアクターの利益 が複雑に交差する巨大な政治的祭典と捉えることができるわけだ。

移民の歴史資料を調べてみると、その起源は、少なくとも50年前にさかのぼることがわかる。

第二次世界大戦終結後、ブラジル邦人社会に生じていた「勝ち組」と「負け組」の抗争による大きな混乱が、終結に向かったことには、1954年の「サンパウロ市400年祭」への参加が大きな役割を果たしたと言われている2。 植民地国家から近代的民主国家への飛躍を内外に示すことを目指していたブラジル政府は、サンパウロ市の起源となるコレジオ・デ・サンパウロの建設400年 目に当たる1954年にサンパウロ市建設400周年を記念する大規模な祭典を計画していた。巨額の費用を投じて、一年間に亘って行われる祭典では、サンパ ウロ市内のイビラプエラ公園の巨大な敷地での万国博覧会の開催を中心として、多数の国際会議、見本市、国際スポーツ大会、その他多様な国際的文化イベント が開催されようとしていた。

当時、サンパウロ市の400年祭委員会は、サンパウロにおける各国のコロニア(Colônia, 移民コミュニティ)及び、その本国政府に支援を募っていた。これに着目したのが、サンパウロ州東山農場の総支配人で、時局認識運動3や日系人の戦時凍結資産解除運動4に 挺身していた山本喜誉志(やまもと・きよし)であった。彼は自ら日系コロニアの400年祭協力会の会長となって、日本政府への協力強化の要請を行い、当時 40万人といわれた日系移民に対して融和と結束を呼びかけた。ブラジルのお祭りへの一致団結の参加を通じて、日本移民の内的統合、ブラジル社会からの承認 を勝ちとろうという考えだ。

「示せ協力 世紀の祭典」との標語のもとで行われた準備活動の結果、巨額の日本政府参加費及び移民による寄付金を取り付け、イビラプエラ公園内における日本館及び日本 庭園の建設を初めとして、日本国外務大臣の初のブラジル訪問を含む百件近いイベントを主催、または後援した。この記念祭は1930年代のナシオナリザサウ ン(Nacionalização, 国家統一)政策のもとでの外国人の活動制限、第二次大戦中の孤立、そして戦後の「勝ち負け」抗争の混乱を経験していた邦人社会にとって、初めて移民社会全 体に積極的な共同体感覚をもたらした出来事となった。

この動きから数年後、サンパウロ400年祭で発揮された団結を生かして、新たにブラジルにおける日本移民自体を慶祝する祭典が行われる。移民の最初 のブラジル移民船「笠戸丸(かさとまる)」のサンパウロ到着から50年目1958年の6月に「日本移民50年祭」が盛大に開催された。ここでは、移民物故 者の慰霊・法要、三笠宮夫妻を迎え5万人が参加した記念の祝典の他、移民社会の実態調査、記念誌の編纂、病院や文化センターの建設などの記念事業が行われ た。「初期移民の嘗めた辛酸、第2次大戦を挟んだ重苦しい排日の空気と不当な抑圧、戦後日系コロニアに起きた混乱に区切りをつけ、今後の日系コロニアの方 向を打ち出した」と現在は語られている。

興味深いことに、このときすでに、日本移民に対する惜しみない讃辞の原型が出来ていたようだ。1958年の新聞を開くと、O Estado de S. Paulo, Folha da Manhã, Correio PaulistanoやA Gazetaなどといったブラジルの大手新聞には、日本移民特集が組まれ、日本とブラジルの融合や日本移民の徳を宣揚する、様々な意匠の施された広告が紙 面を飾っている。

「努力、規律、そして知性がもたらした奇蹟!500年に値する50年...」
「この半世紀、日本移民は日本人の努力とブラジルの大地は、協業と進取の精神で我が国の発展と両国の理解に貢献した」
「新しい技術と勤労と忍耐及び模範的な規律によって[...]日本人はブラジル農業生産に素睛らしい推進を與えました」5

これが今日の「私たち一人ひとりの中の日本」というメタファーに発展していくのである。

その後、10年ごとに行われるブラジル日系移民の記念祭は日本移民50年祭を一種のプロトタイプとして、繰り返されているといえる。1968年に は、移民60周年祭が皇太子を迎えて開催、1978年の70年祭では参加者9万人の祭典が開催されたほか、移民の歴史的足跡をとどめるために建設された 「ブラジル日本移民史料館」が開館となった。1988年の80年祭では、1万人の巨大な人文字が話題を集めた。1998年の90年祭にはデカセギ移住者向 けの在日ポルトガル語新聞に移民の歴史を振り返る特集が組まれた。

この十年ごとの祭典を通じて、日本とブラジル、日本と日系移民、日系移民とブラジルの間に、無数のミクロの交流が行われ、強い関係の糸が張られてきたのである。この祭典が一つのパターンを作り、繰り返されてきたことに、日本・ブラジル間の関係の強さがある。

2008年の百周年祭が行われたのは、こうした背景のもとであった。

注釈:
1.三つの詩のうち、一つめ及び二つめは、リオ・デ・ジャネイロのポルト・ダ・ペドラによる「日本移民の百年--笠戸丸の中には宝の塔がある」から。三つめは、サンパウロのヴィラ・マリアによる「イラッシャイマセ、幾千年の文化と智慧の日本移民百周年」から。いずれもJornal Nippo-Brasilウェブサイトの2008年カルナヴァル記念ページ、http://www.nippo.com.br/carnaval/を参照した。

2.サンパウロ新聞社編、『コロニア戦後十五年史』サンパウロ新聞社、1960、24ページ; 聖市四百年祭日本人協力会『サンパウロ四百年祭』、1957年。

3.第二次世界大戦後のブラジル日系社会に於いて、サンパウロ市内の一部の指導者が中心となり、日本の戦勝を信じる人々に対して、敗戦を認識させるために行った一連の組織的活動のこと。

4.第二次世界大戦中にブラジル政府によって凍結されていた日本病院や東山農場をはじめとする日系移民の資産の返還を求めて行われた運動のこと。

5. 三つの文言のうち、一つめ及び二つめは1958年6月18日付のFolha da Manhãに掲載されたポルトガル語広告におけるもの。三つめは同日付の日伯毎日新聞に掲載された日本語広告から。

© 2008 Koji Sasaki