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難民として米国移住した日本人たち その4: 渡米2年で郷里に家が建った-小屋喜生さん-

>>その3 (西屋国弘さん)

ロサンゼルス郊外ノースリッジで引退生活を送る小屋さんは串木野市出身。1955年、難民移民枠を適用し、夫婦で渡米してきた。

串木野では、戦争中に落とされた爆弾で実家を焼失、一間のバラック家に家族と親戚10人で寝起きしていた。仕事は農業。グリーンハウスで野菜を育て ていた。しかし、急激なインフレ下でどんなに働いても暮らしは楽にならない。そんな時、市役所でアメリカ行きの話を耳にした。すぐにその話に飛びついた が、難民と認定されるまでに時間がかかった。しばらく待たされた後、ルース台風で農業が被害を受けたことで晴れて難民枠に入ることができた。

小屋さんは他の移住者とは異なり、妻を伴って渡米した。目的地の西田キャンプでは、夫は農場で、妻はキッチンで働くことが決まっていたからだ。

「他のキャンプは大変な状況だったと聞いているが、西田キャンプの待遇は良かった。一部屋に二人ずつ入り、食事も恵まれていた。大きなテレビもあった。また、他のキャンプには農閑期があったが、西田では年間を通じて野菜を作っていた」

時給は1ドルだった。日本では日給が3百円、4百円という頃だ。アメリカでは時給で360円もらっていた計算になる。

2年働いた頃、送ったお金で鹿児島に立派な一軒家が建った。

3年と少しの間、夫婦揃って西田キャンプで働いた後、妻の姉が暮らすロサンゼルスへと移ってきた。仕事は見習いから始めた後、ビジネスを買い取って ガーデナーとして独り立ちした。20年経った頃、蓄えた資金でコインランドリーを始めたものの、経営に失敗。さらにレストラン経営にも手を付けた。しか し、それにも失敗し、多額の借金を作ってしまった。その借金を返済するために、再びガーデナーの仕事に戻ることになった。この経験で、小屋さんは、地道に働くことが一番確かだということを悟ったそうだ。

アメリカに移住して50年を超えた。「振り返ってみて思うのは、人生、失敗はしたが、好きなことができたということ。今は本当に満足している。鹿児 島で百姓を続けていたら、こうはいかなっただろう。渡米したことで、先祖代々の土地を手放すことになったことが、唯一の心残りだ」

元「難民」だった日本人移民たち。彼らはアメリカに渡る決断をしたことを誰一人後悔はしていなかった。「アメリカに来たことで人生が変わった」と口を揃える。どんな時代でも、チャンスが目の前に来た時に行動を起こした物だけが転機を作ることができる。そういう意味でも、彼らにチャンスを与えた内田善一郎は、真の意味での「ヒーロー」だと言える。

内田自身もアメリカへと移住し、北カリフォルニアのサリナスで長年農業に従事していた。彼の人生は、南日本新聞社より先ほど発刊された「カリフォルニア移民の父—内田善一郎伝」に詳しい。

(終)

© 2008 Keiko Fukuda

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