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ブラジル国、ニッポン村だより

カデイアと日本人移民

第二次世界大戦中北米の日本人移民が、収容所生活を強いられたことは広く知られている。移民先国と祖国が敵同士となったのはブラジル日本人移民も同 じだ。ブラジルには収容所こそなかったが、やはり敵国人としての扱いは受けた。戦争中から戦後の一時期まで、ちょっとしたことでカデイア(監獄)行きとい うことも珍しくなかった。

戦争中のある時期、日本語は禁止されていた。

日本語禁止というのは、日本語をしゃべってはいけないということだ。しゃべってはいけない、というのは、しゃべったら注意や譴責を受けたという程度の話ではない。日本語を使ったところを警察に見つかったり密告されてカデイアに入る羽目になったひとは少なくない。

ブラジル日系社会のお年寄りと話をしていると、戦争中の苦労話のひとつとしてこの話題がよく出る。自分の経験のこともあれば、父親だったり、叔父さんだったり、近所のだれかの話として。

AOさんは娘の頃、サンパウロに出て学校に通っていた。たまに仕事で田舎から出てきた父親が、レストランで食事をご馳走してくれるのが楽しみだった。戦争が始まり、日本語禁止時代になってもその習慣は続いていた。

あるときレストランに入ると、なんとなく周りから注目されているように感じた。当然日本語をしゃべることはできない。久しぶりに会った父娘は、あまり達者 ではないブラジル語で不自由な会話を交わした。たぶん言葉に気をとられて食事を愉しむというわけにはいかなかっただろう。

店を出るときになって気が緩んだのだろうか、ポロリと口から出た言葉は、「じゃあまたね」だった。このたった一言でそれまでの苦労は水泡に帰した。詳しいいきさつはわからないが、店の外にはもう当局が待ち構えていて、父娘はそのまま警察に連行された。

あまりにばかばかしい話だから、ここまでのところでつい笑ってしまいそうだが、その後女性だからというのですぐに釈放されたAOさんが、父を奪還するまで の一晩の武勇伝を聞くとそんな暢気な事態ではなかったということがわかる。ともあれ、ここで父親を取り戻さなければ二度と会えないのではないかと必死の AOさんの機転と勇気、移民仲間の助力で父親も翌朝には戻ってきた。

日本人にとってカデイアがいちばん身近になったのは、戦後すぐの勝ち組・負け組抗争の時だ。

この騒動にかかわって、実に多くの日本人が投獄されることになった。十名を越える犠牲者が出た事件の犯人たちはもちろんのこと、騒ぎに便乗して荒稼ぎした 詐欺師や扇動者も捕まった。しかしおそらくもっとも多かったのは、勝ち組に加担して騒ぎを大きくする恐れありと当局からめぼしをつけられた若者たちだった と思われる。彼らの多くにとってこれはとばっちり以外のなにものでもなかった。

捕らえられた若者たちは、「日本は負けたか否か?」と問われ、負けたと答えた者から帰された。

KNさんは、戦後ほどなくして、人口一万人にも達する日本人移住地にあった連合青年団の会長に推された。それまでの会長は日本の敗戦を受け容れた派、いわ ゆる認識派だったが、連合青年団の大勢はそこに組することを潔しとしなかった。ただしそれは青年団が勝ち組だったということではない。KNさんが担ぎ出さ れたのは、勝ったか負けたかはまだわからない、現時点で敗戦を喧伝するのは間違いだと考えている、という立場だったからだ。

当時高い組織率を誇る集団で町への影響力も大きかった連合青年団の動向に対して、当局は当然大きな関心を寄せる。青年団が勝ち組にまわる事態だけは避けた い。各地で抗争が起きるようになると、予防的措置という意味合いでKNさんはじめ数人の幹部は拘束され、とうとうサンパウロのカデイアに送り込まれること になった。

当時KNさんたちはまだブラジル語が十分ではなかったこともあって、状況がもうひとつ飲み込めていなかった。とにかくサンパウロまで行くというので列車に 乗り込んだ。ほとんど丸一日かかるこの小旅行は、手錠があるわけでもなく、ビールなど飲みながらの愉快な、暢気なものだった。

しかしサンパウロのカデイアに収監されたKNさん一行は、結局それぞれ数週間から数ヶ月そこで過ごすことになった。最後のひとりになったのはKNさんだ。

カデイアに出回っていたポルトガル語新聞を、ポルトガル語をある程度理解できた若手幹部に読んでもらっているうちに、KNさんもどうやら日本は負けたらし いと考えるようになった。「負けました」と言えば解放される。でもそう簡単に認める気持ちにはなれなかった。とりあえず若い仲間には日本の負けを認めて町 に戻るように諭した。

日本の勝利を主張して獄中で騒ぎを起こす日本人もいた。そこには加わらず、後輩の出所を見届けたKNさんもようやく町に戻ることができた。

ところでカデイアでの生活はどんなものだったのだろう。ひどい扱いを受けた話も聞くが、多くの人にとってつらかったのは、死にそうなほどの退屈だったようだ。そんな退屈の極致は、ときに瞠目すべき発想の源泉となった。

戦前の日本人移民社会で人気の娯楽に麻雀があった。カデイアには時間はたっぷりあるし、相手はいくらでもいるのだから、牌さえあれば麻雀やり放題だ。さて どうにかならないものか。いくらなんでも差し入れは許されないだろうから、ここで作るほかない。材料は?と考えてひらめいたのは、毎日の「ごはん」だっ た。固めて形をとり、乾かせば牌にもなるだろう。試作品の出来も悪くなく、それから毎日有志がひとつまみずつごはんを残し、丁寧に固めては役牌、風牌と少 しずつ揃えていった。

そうしてカデイアは雀荘のようになった、とまではいかなかっただろうが、退屈しのぎの目的は達したようだ。牌ができるなら駒もできる。同じ方法で将棋もやった。牌や駒の制作自体も大きな楽しみであったに違いない。

使いこむうちに人の手の脂でツヤが出たところがなかなか見事な駒や牌だったので、大事に取っておけば博物館の資料にでもなったはずだが、釈放された喜びでそのまま捨ててしまったのがなんとも惜しい。当事者はそんな言葉を残している。

© 2007 Shigeo Nakamura

Brazil community World War II

About this series

ブラジルサンパウロ州奥地の小さな町の日系社会。そこに暮らす人びとの生活ぶりや思いを、ブラジル日本人移民の歴史を織り交ぜながら、15回に分けて紹介するコラムです。